前稿で『韓流ドラマはもう飽きた。』と書きながら、またぞろ持ち出しては矛盾もいいとこだが、敢えて採り上げる。韓流で“か弱き女”が主題になることはまずない。強いて挙げれば、せいぜい《春香伝》の成春香(ソン・チュニャン)ぐらい。おおかた“逞しい女”ばかりが登場する。男のほうも負けず劣らず、有無を言わせぬ強引なタイプが多い。とにかく、男女とも饒舌かつ挑発的・攻撃的・好戦的でなければならないらしい。ゆゑに、喧しいこと夥しい。間違っても英国流紳士・淑女たちとは言い難いし、日本風な浪花節の世界とも違う。まるでハリウッド西部劇でも観るかのようで、此はビリー・ザ・キッドかカラミティ・ジェーンか、といった風情(ふうじょう)が汪溢する。
ところが不思議なことに、主役級の男が人目を憚らずよく泣く。それも女に振られただけで、メソメソしたり火病(화병)ったりだから理解に苦しむ。喜怒哀楽が殊更強調され、芝居掛かった大仰な“演技”が展開される。実際が“芝居”なので当然と言えば身も蓋もないが、異変に際しての乱心ぶりが凄まじい。凡そ日本人なら、男が逆境に耐えかねて落涙したり、女が歯茎も露わに高笑いするのを恥とし、出来る限り抑えようとするのだが・・。韓流では希少な“か弱き女”の代表格ホ・ヨンランさんでさえ、大和撫子風俯き加減の女歩き(内股歩行)ではない。よく見ると、外国人女性にありがちな男歩き(外股歩行)とあっては、忽ち興が醒めてしまう。
☆ ホ・ヨンランもついに火病った?
韓流ドラマに対する言い知れぬ違和感は、こうした細かい立ち居振る舞いにも顕れる。一方、欧米やタイのドラマにこの種の感慨は殆どない。端から“異国物”と理解して視るので、《違って当り前》という心の準備が出来ている。けれども、台湾を除く近隣の韓流・華流(中国=支那)の場合、やや事情が異なる。つまり、なまじっか姿形が似ているだけに、皮相な域を出ないうちは妙な親近感がある。が、知れば知るほど余りの相違に気づいたとき、有らぬ“期待”を抱いてしまった分、似て非なることへの反動で親愛が裏返り、そこはかとない嫌悪感に変質する。
反日・侮日に対抗するかのような嫌韓・反中の派生要因は、何も時局に基づく政治的立場の違いに限らず、国民性の相互認識にも著しい齟齬があると思う。概ね日本人が中・韓を好きになれないのと同様、中国人(支那人)は日・韓が嫌いだし、韓国人も日・中への反感が強いようだ。ただし、日・中・韓では理由がそれぞれ異なる。
齟齬の大本を辿れば、【文化】の違いが挙げられる。歴史や社会構造(日々の暮らしぶり)は、人々の思考・生活習慣に多大な影響を及ぼす。その結実が【文化】と言って差し支えなかろう。歴史的に観れば、度重なる征服戦争で異民族支配も余儀なくされてきたのが大陸・朝鮮半島とするなら、我が国は島国ゆゑに外敵の襲来が少なく、概ね平穏で内政的にも比較的安定した歴史を紡ぐ単一民族国家(厳密には違うが)である。従って、前者(中・韓)は夜警型社会とならざるを得ず、後者(日本)が高信頼型社会の建設を目指すのは“歴史の必然”ということになる。勢い、対人関係での国民性向も、他人を信用できない性悪説思考か、或いはお人好し的性善説思考か、という違った方向へ二分される。
社会的身分・階級に目を転じると、何処も似たような制度だったようだ。例えば、奴隷階級に属する奴婢(ぬひ)は賤民として分類され、大陸・朝鮮半島はおろか我が国にも居たという。ただし、人々の胸中にある差別意識を別にすれば、日本では早い時期の10世紀頃には制度が撤廃されたのに対し、支那・朝鮮では現体制になる20世紀半ばまで厳然と存在したという事実がある。被差別民としての賤民(穢多・非人の類)は江戸時代まであったとされるが、朝鮮における身分・職業・性別・門地等に依拠する差別意識は、我が国の比ではないらしい。火病は、歴史上虐げられ続けた民族であればこその精神疾患と言える。
シリアスドラマと雖も、韓流の作風は概して幼稚であり原始的である。どうしてそう映るかと思ったら、自分が子供の頃見聞きした光景が次々と出てくる。伝記物ならいざ知らず、おおむね現代劇でも主人公の子供時分から物語が始まる。積年の虐げられた恨み辛みを視聴者に知らしむるためだろう。“恨(ハン)の文化”たる所以である。
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