“文化の違い”という偉そうな表題をつけたが、文化とて人間が創るもの。当然に国民性が反映する。まあ堅苦しい話ばかりでは面白くないので、もっと俗っぽい視点で観てみよう。
韓流ドラマで、何とも解せないのが大の男がよく泣くこと。いわゆる「男泣き」であれば納得もいくが、そうではない。意中の女に振られてメソメソ、悪夢に怯えてメソメソ、逆境に耐えかねて涙、苦渋の決断を迫られてまた涙。貧困を恥じては富豪を妬み恨み、人目を憚らず泣きまくる。それもメロドラマの主役級や史劇の国王・武将といった、本来、男男した連中でさえこれだから理解に苦しむ。日本の時代劇なら、奥方や母君から『ええぃ、女々しいっ!』と叱咤が飛んでこよう。
時代こそ異なるものの、日本には戦後メロドラマの典型として、映画『君の名は』(昭和28年~30年)がある。全篇約6時間を改めて観た。主人公の後宮春樹(佐田啓二)は、恋慕する氏家真知子(岸恵子)に振られようが艱難辛苦に遭おうが、決して涙を見せない。それどころか、悪役を含めて登場する男どもは誰も泣かない。子供の頃から《男は人前で泣くものじゃない》と躾けられてきた自分は、やっぱりこうでありたい。そこへいくと真知子のほうは、女だからよく泣く。
これが韓流ドラマだったら、春樹も真知子も、ともに涙を流しながら慰め合い、二人が結ばれない元凶である浜口勝則(川喜多雄二)に恨みを抱きつつ、彼さえ居なければと、やがて復讐の炎を燃やし始める。しかし、日本のドラマだから復讐劇とはならない。
『君の名は』(第三部)から台詞を拾ってみよう。
春樹 「あの人(浜口)だって決して悪意だけの人ではありません。あなたに対する愛の苦しさから逃れることが出来ないんです。苦しいのは僕たちばかりじゃない。真知子さん、僕たちお互いに知り合わなかったら、あるいは今より幸福だったかもしれない。でも、愛情ってのは現状の幸福の問題ではない。それを超えたことです。例えどんなに不幸になろうと、あなたに対する愛情だけは失うことが出来ません。」
真知子(添島に対し) 「ご厚意は本当に有り難いんですけれど、浜口を騙してまで・・・。わたくし、これ以上悔いの残ることを決してすまいと誓っております。もしかしたら、このまま死んでしまうのではないか。そんな気さえ致すんですの。何ですか心細くて・・・。それだけに、浜口がどうあろうと、一度はわたくしの夫であった人を欺いてまで・・・。それではわたくしの気持が許しません。後宮さんもきっとそう仰るだろうと思いますの。わたくし、死ぬなら美しく死にたい。いいえ、生きるにしても・・・。添島さん、どうぞわたくしをそっとしておいて下さいませ。ずいぶん愚かな女とお思いでしょうが、わたくし、今までずっとそうして生きて参りました。これからも、やっぱり・・・。」
真知子(勝則に対し) 「お義母さまも、あんなにお優しくおなりになって・・・。みんないい方たちなのに、どうしてだったんでしょう? どうしてだったんでしょうね?」
“悪意だけの人ではない”“みんないい方たち”でわかるように、春樹も真知子も、誰かを恨んだり妬んだりはしていない。《根っからの悪人なんてそう居るものじゃない》との前提(信頼型社会)があるからだろう。翻って韓流ドラマでは、こんな台詞はなかなか聞けない。強いて挙げれば、添島のキャラクターが韓流にやや近いかもしれない。彼の国では、現実自体が「虚構」で成り立っているため、誰をも信用できず、まず他人を疑ってかかる習性が染み着いたということか。そのくせ、敵方と見なす人物の言を真に受けるといった、間抜けな脚本が痛い。
半世紀以上前の映画なので、現在とは違うかもしれませんが、諸外国の恋愛が多分に自己中心的であるのに対し、自分がどうなろうと相手の幸せを第一に願う恋愛は、日本独特のものなのでしょうかね。
日本人は論理型よりも情緒型と思っている自分の考えを覆すようだが、韓流ドラマは泣いたり叫んだり、蹴っ飛ばしたり。強引且つ情緒不安定な衝動的言動が目立ち、感情を隠そうとしない。とても騒々しい。それに比べると、自制の効いた邦劇のほうが、よほど理性的である。
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