儒家思想に戻ると、大陸(中国・韓国・北朝鮮)の場合、権力層や年長者にとって都合のいいように形骸化され、むしろ悪習としてしか残らなかったらしい。例えば「忠」とは主君への絶対服従であり、「孝」とは親の言いなりになることであって、臣下・身分下位者・子女らの諫言・意見を一切聞き入れぬ絶対的上下関係に縛られていたようだ。
李氏朝鮮時代の身分制度には、良民(両班・中人・常人)と賤民(李朝八賤;僧侶・胥吏・女官・妓生・医女・男寺党・奴婢・白丁)の区分があった。インド・東南アジア・日本などで高位に在る僧侶が賤民とはぶったまげる。で、賤民のうち白丁だけは良民との接触さえ許されず、人間扱いされない家畜としての存在だったという。現代とはニュアンスが違うものの、実際に《白丁を家畜する》との言い方があると聞く。なお、中国や日本にも白丁は居たが、公の職を持たない無位無冠の良民男子を指す。従って、朝鮮における白丁とはまったく異なるみたい。
どうでもいいけど、北朝鮮“喜び組”のルーツ(?)ともいうべき妓生(キーセン)の身分は賤民。ただし、両班(ヤンバン)に囲まれて出来た妓生の子供は良民として処遇されたという。すると、パンソリ『春香伝』の成春香(ソン・チュニャン)は妓生の娘なれど、父親が両班だから春香自身は良民で母親は賤民のままということになる。
日本にも被差別民が居たろうし、当然低い身分もあった。そこで、御家に仕える下僕(召使い)としての奴婢(“やっこ”と呼ばれた)や商家の丁稚といった者に注目してみよう。彼らの主従関係において、大陸と明らかに違うのは、身分こそ低いものの概ね御家(商家)の一員として処遇され、主人に唯々諾々するのでなく、むしろ身体を張って主人を諫めたり意見するくらいのほうが忠義とされた点だろう。
労働観もまるで違う。労働を苦役とする大陸では、手足を動かす(働く)のは下々の役割と考え、身分高位者であるほどに自ら汗することを嫌ったらしい。従って上へいくほど何もせず、下僕が主人の手足になっていたという。これを踏まえて、北朝鮮の“主体(チュチェ)思想”を読んでご覧なさい。『(北朝鮮の)頭脳は首領様お一人。公民は黙って首領様の手足となろう。(つまり、公民は何も考えるな)』との趣旨が理解出来るはず。ところが、労働を悦びとする日本では、仕事がない(手足を動かさない)ほうがむしろ苦痛に感じはしないか。
ともに儒家思想を基礎にしながら、どうしてこうも顕れ方が違ってしまうのか。どうやら伝承のされ方に相違があるような気がする。大陸では思想の結果としての制度・地位・肩書・外見(見栄え)といった形(かたち)のほうを重んじたのに対し、日本は外面よりも思想そのものを何より尊んだのではないか。こう考えると合点がいく。
極端な話、朝鮮では、為政者として善政という究極の目的に腐心するわけでもなく、国王とか両班、左議政(総理大臣)といった地位や身分、肩書を有り難がったため、本来手段に過ぎないそれらを得ることが最終目的化してしまった。韓流史劇はどれもこれも、政治そっちのけで謀略の限りを尽くした陰惨な権力闘争が繰り広げられる。如何に国王や王妃といえども、簡単に廃位・廃妃させられたり、家臣に謀殺されたりするんですね。史実なのかどうか知らないけれど、それはそれは目を背けたくなるほど醜く酷い。
《つづく》
コメント