☆ エピキュリアニズム (享楽主義)
端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。ここに覚え付き候へば、外に忙(せは)しき事もなく、求むこともなし。この一念を守つて暮すまでなり。皆人、ここを取り失ひ、別にある様にばかり存じて探促いたし、ここを見付け候人なきものなり。
さてこの一念を守り詰めて抜けぬ様になることは、功を積まねばなるまじく候。されども、一度辿り着き候へば、常住に無くても、もはや別の物にてはなし。この一念に極り候事を、よくよく合点候へば、事少なくなる事なり。この一念に忠節備はり候なりと。
【 訳 】
重要なのは現在の一念、つまりひたすらな思いよりほかはない。一念、一念を積み重ねていって、それが一生となる。これを思いつきさえすれば、別に忙しくもなく、探し求める必要もない。ただひたすらな思いを守って暮らすだけである。だが、誰もこの事を忘れて、別に何かあるように思って探し求めるので、これに気づく人はいない。
さて、この一念をとおして迷わぬようになるのは、多くの年月を経ないと出来ない。しかし、一度その境地に辿り着けば、常にそうした考えが無くても、もはや別の物ではないのだ。この一念に極まった事を、よくよく理解すれば、混乱が少なくなる。この一念にこそ、忠節が備わっている物と考えてよい。
【 解説 】
エピクロスの哲理は享楽主義と名付けられるが、実は、ストイシズムと紙一重であった。
我々が女性とデートをして、一晩ホテルへ行って、明くる朝しらけた気持で早朝興行の映画に行って、欠伸をかみ殺してつまらない映画を見ている時、その時に感じるものはもはや享楽主義ではない。享楽主義とは、享楽独特の厳格な法則をいつも心に留めて、その法則を踏み外さぬように注意深く振る舞うことに他ならなかった。
従ってエピクロスの哲理は、享楽がそのまま幻滅に陥り、果たされた欲望が忽ち空白状態に陥るような肉体的享楽を一切排斥した。満足は享楽の敵であり、幻滅をしか惹き起こさなかった。
従って、エピクロスは、キュレネ学派と同じく、快楽を幸福有徳な生活の最高原理としながら、その快楽の目的をアタラクシア(平静)に置き、また、この快楽を脅かす死の不安は、「生きている限り死は来ず、死んだ時には我々は存在しないから、従って死を怖れる必要はない。」という哲理で解決した。
そのようなエピクロスの哲理は、そのまま山本常朝の快楽哲学に繋がっている。彼の死の哲学には、確かに、このような快楽のストイックな観念が潜んでいた。
ん~む。『葉隠』とは、快楽哲学なのでしょうか。どうもピンときませんが、なるほど、恋愛論あり、宴席論あり、身だしなみ論ありで、一筋縄ではいかない書物であろうことは、おぼろげながら理解出来ます。
学生時分は、ギリシャ哲学のエピクロスや近代に入ってからの精神医学者フロイトなど、妙なところに関心があったのですが、結局うわべを舐めただけで終わってしまいました。かといって、厳しい哲学は、端から敬遠して無縁でしたね。自分は、時の流れに身を任せた快楽主義的な楽観者であろう、と薄々自覚していますが、どうでしょう。
ここの説話は、もっと単純に、周囲の雑音に惑わされず、己の信ずる道をひたすら歩め、という教えのような気がします。
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