☆ 義の客観性
不義を嫌ふて義を立つる事成りがたきものなり。然れども、義を立つるを至極と思ひ、一向に義を立つる故に卻つて誤(あやまり)多きものなり。
義より上に道はあるなり。これを見付くる事容易に成りがたし。高上の賢智なり。これより觀る時は、義などは細きものなり。こは我が身に覺えたる時ならでは、知れざるものなり。
但し我こそ見付くべき事成らずとも、この道に到り樣はあるものなり。そは人に談合なり。たゝへ道に至らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるものなり。碁に脇目八目と云ふが如し。念々非を知ると云ふも、談合に極るなり。話を聞き覺え、書物を見覺ゆるも、我が分別を捨て、古人の分別に付く爲なり。
【 訳 】
悪を嫌って正義を通すということは、なかなか難しいものである。けれども、正しい条理を通すことだけを一番よいことと信じ、ひたすら正義を尊ぶところに、却って誤りの多く表れるものなのである。
何故なら義とか不義とかを超えたところに真理は存在するからなのだ。これを発見するのは難しいことである。それを成し遂げる者は、最も優れた叡知の持ち主といってよい。この点から眺めれば、条理などというものは小さなことである。自分の身に感じたときでなければ知ることは出来ない。
しかし、自分でそれを見出し得なかったとしても、この道に至り着く方法はある。それは、人と話し合うことだ。たとえ道を究め得ない人であっても、他人のことならわかるものである。碁でいう傍目八目という言葉のようなものだ。「思い巡らして非を知る」という言葉があるが、こうしたことも、話し合いに限るものである。話を聞いたり、書物を見たりして知るというのも、自分勝手な分別を捨てて、古人の考えに遵うためである。
【 解 説 】
正義というものの相対性について、『葉隠』はこの項目では、あたかも民主主義の政治理念に近づいている。己の信ずる正義が確認され、実証されるためには、第三者の判断を待たなければならないというのが民主主義の理念である。『葉隠』は、これほど激しい行動哲学を教えながら、依って以てたつ義については、いつも疑問を残していた。
行動の純粋さは主観の純粋さである。しかし、もし行動が義を根拠にするならば、その義の純粋さは別の方法で確かめられなければならない。行動自身の純粋さを行動で確かめるとともに、常朝は義の純粋さは別の方途によらなければならぬことを知っていた。それが談合ということである。傍目八目のみが、ある正義に惑溺した人間を救うことが出来る。『葉隠』はこういう意味でイデオロギー的に、相対的な立場に立つものだということができる。
三島由紀夫の解説文は、民主主義の理念がどうのこうのと、小難しい話になっていますが、「『葉隠』名言抄」では“傍目八目の効用”との表題です。
自分では思い込みが激しく気がつかないようなことでも、他人のほうが客観的によく見えるものだから、耳が痛くとも他人の意見をよく聞け、という教訓ではないか、と思います。如何でしょうか。
ありがとうございました。
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