☆ デリカシー
人に意見をして疵(きず)を直すと云ふは大切なる事にして、然も大慈悲にして、御奉公の第一にて候。意見の仕様、大いに骨を折ることなり。およそ人の上の善悪を見出すは易き事なり。それを意見するもまた易き事なり。
大かたは、人の好かぬ云ひにくき事を云ふが親切のやうに思ひ、それを請けねば、力に及ばざる事と云ふなり。何の益(やく)にも立たず。ただ徒らに、人に恥をかかせ、悪口すると同じ事なり。我が胸はらしに云ふまでなり。
そもそも意見と云ふは、先づその人の請け容るるか、請け容れぬかの気をよく見分け、入魂(じつこん)になり、此方の言葉を平素信用せらるる様に仕なし候てより、さて次第に好きの道などより引き入れ、云ひ様種々に工夫し、時節を考へ、或は文通、或は雑談の末などの折に、我が身の上の悪事を申出し、云はずして思ひ当る様にか、又は、先づよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を飲む様に請合せて、疵を直すが意見なり。
されば殊の外仕にくきものなり。年来の曲(くせ)なれば、大体にて直らず。我が身にも覚えあり。諸朋輩兼々入魂をし、曲を直し、一味同心に主君の御用に立つ所なれば御奉公大慈悲なり。然るに、恥をあたへては何しに直り申すべきや。
【 訳 】
意見してその人の欠点を直す、ということは大切なことであり、慈悲心とも言い換えられる。それは、ご奉公の第一の用件である。ただ、意見の仕方に骨を折る必要がある。他人のやっていることに対して善悪を探し出すということはやさしいことで、また、それについて批判することもたやすい。
大方の人は、人の好かない、言いにくいことを言ってやるのが親切のように思い、それが受け容れられなければ、力が足りなかったとしているようだ。こうしたやり方は何ら役立たずで、ただ徒らに人に恥をかかせ、悪口を言うだけのことと同じ結果になってしまう。言ってみれば、気晴らしの類だ。
意見というのは、まず、その人がそれを受け容れるか否かをよく見分け、相手と親しくなり、こちらの言うことを、いつも信用するような状態に仕向けるところから始めなければならない。その上で趣味の方面などから入って、言い方なども工夫し、時節を考え、或いは手紙などで、或いは帰りがけなどに、自分の失敗を話し出したりして、余計なことは言わなくても思い当たるように仕向けるのがよい。まずは、良いところを褒め立て、、気分を引き立てるように心を砕いて、喉が渇いた時に水が飲みたくなるように考えさせ、そうした上で欠点を直していく、というのが意見というものである。
意見というものは、ことのほかしにくいものといえる。誰にでも年来の悪癖みたいなものが身に沁み込んでいるので、そうすぐには直らないということは、私自身(山本常朝)にも覚えのあることだ。友達一同、常日頃親しくして、悪癖を直し合い、一つの心になってご奉公に努めるようになることこそが、本当の慈悲心と言えるだろう。それなのに、恥をかかせては、直るべきものも直そうとしなくなってしまう。
【 解 説 】
男の世界は思いやりの世界である。男の社会的な能力とは思いやりの能力である。武士道の世界は、一見荒々しい世界のように見えながら、現代よりももっと緻密な人間同士の思いやりのうえに、精密に運営されていた。常朝は人に意見するにも、配慮とデリカシーをつぶさに説いている。
忠告は無料である。我々は人に百円の金を貸すのも惜しむ代わりに、無料の忠告なら湯水の如く注いで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることは滅多になく、人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかうことに終わるのが十中八、九である。
常朝はこのことをよく知っていた。彼が人に忠告を与えることについての、この心細かな配慮をよく見るがよい。そこには、人間心理についての辛辣なリアルな観察の裏付けがあるのであって、常朝は決して楽天的な説教好き(人間性に最も無知な人々)の一人ではなかった。
「『葉隠』名言抄」では、“批判の仕方”という表題になっています。三島由紀夫の解説文につけられた“デリカシー”とは心配りの細やかさ、つまり、思いやり、のことでしょう。原文の表面を読めば、なるほど批判や忠告の仕方に違いありませんが、三島は常朝の内心に着目したればこそ、そこに横溢する思いやりを見出したということか。
いずれにしても、対手の信頼がなければ何事も聞き入れられない、ということかもしれませんね。さりとてこの術は、対手が相応の能力を具備した人でないと通じないだろう。気配を感じろなどと言ったところで、何でも科学的合理主義でしか考えが及ばない西洋人や、そうした考え方しかできない多くの現代日本人には、逆立ちしても無理な注文でしょうね。
ありがとうございました。
コメント