☆ 常住の死と覚悟
五六十年以前迄の士(さむらひ)は、毎朝、行水、月代、髮に香をとめ、手足の爪を切つて輕石にて摺り、こがね草にて磨き、懈怠なく身元を嗜み、尤も武具一通りは錆をつけず、埃を拂ひ、磨き立て召し置き候。
身元を別けて嗜み候事。伊達のやうに候へども、風流の儀にてこれなく候。今日討死討死と必死の覺悟を極め、若し無嗜みにて討死いたし候へば、かねての不覺悟もあらはれ、敵に見限られ、穢なまれ候故に、老若ともに身元を嗜み申したる事にて候。
事むつかしく、隙つひえ申すやうに候へども、武士の仕事は斯樣の事にて候。別に忙(せ)はしき事、隙入る事もこれなく候。
常住討死の仕組に打ちはまり、篤と死身に成り切つて、奉公も勤め、武邊も仕り候はば、恥辱あるまじく、斯樣の事を夢にも心つかず、欲得我が儘ばかりにて日を送り、行當りては恥をかき、それも恥とも思はず、我さへ快く候へば、何も構はずなどと云つて、放埒無作法の行蹟になり行き候事、返す返す口惜しき次第にて候。
平素必死の覺悟これなき者は、必定死場惡しきに極り候。又かねて必死に極め候はば、何しに賤しき振舞あるべきや。このあたり、よくよく工夫仕るべき事なり。
又三十年以來風規相替はり、若侍どもの出合ひの話に、金銀の噂、損徳の考へ、内證事の話、衣裝の吟味、色欲の雜談ばかりにて、この事のなければ、一座しまぬ樣に相聞え候。是非なき風俗になり行き候。
昔は、二十、三十ども迄は素より心の内に賤しき事持ち申さず候故、詞(ことば)にも出し申さず候。年配の者も不圖申し候へば、怪我の樣に覺え居り申し候。これは世上花麗になり、内證方ばかりを肝要に目つけ候故にてこれあるべく候。我身に似合はざる驕りさへ仕らず候へば、兎も角も相濟む物にて候。
又今時若き者の始末心これあるをよき家持などと襃むるは淺ましき事にて候。始末心これある者は義理缺き申し候。義理なき者はすくたれなり。
【 訳 】
五六十年前迄の武士は、毎朝行水をし、頭髪を剃り、髪に香をつけ、手足の爪を切って軽石で擦り、その上こがね草で磨いたりして怠惰にならず、専ら身だしなみに気を配り、しかも武道についても一通りのことは一心に励んだものである。
身だしなみに気を配ることは、一見洒落者みたいに見えるかも知れないが、それは風流心からではない。今すぐにも討死だと決意をし、仮に何の身だしなみもなしに討死したら、普段の気の緩みも現れ、敵に馬鹿にされ、賤しまれたりするので、老いも若きも身だしなみに気を配ったのである。
こうしたことは、面倒くさく、時間のかかるもののように思われるだろうが、武士の仕事はこのようなものなのだ。別に忙しく、手間取ることでもない。
いつも討死のつもりで死身になりきって奉公にも精出し、武芸にも励めば、恥をかくこともないものを、それと気づかず、欲得、わがままばかりで一日一日を過ごし、いざという時に恥をかくが、それを恥とも思わず、自分だけよければ後はどうなっても構わないなどと言って、とんでもない行状になってしまうなど、返す返すも残念なことだ。
普段から必死の決意のない者は、必ずや悪い死に方をするに決まっている。また、普段必死の思いで過ごしていれば、どうして賤しむべき行為などするものか。この辺の事情をよく考えるべきである。
また、三十年この方、諸事万端が変わって、若侍たちが出会って話し合うことは、全て金銀の噂や損得の考え、家計のこと、衣服の品定め、色欲の雑談だけで、こうした話題がなければ一座が白けて見えるというのは、まことに困った状態になったものだ。
昔は、二三十歳ぐらいまでは、そもそも心の中に賤しい考えを持ってはいなかったから、当然言葉にも出さなかった。また、年輩者もついうっかりそのようなことを言い出したりすれば、怪我でもしたように考えたものだ。こうした風潮は世相が派手になり、金銭ばかりを大事なもののように考えているから生まれるのではなかろうか。不釣り合いな贅沢さえしなければ、とにかくそんな考えはなくなってしまうものである。
また、若い人が倹約心などあると、よいやりくりであるなどと褒めるのは、浅ましい限りである。倹約心などのある者は、結局は義理を欠くことになるに決まっている。義理を忘れる者は、言うまでもなく心卑しく、劣った者である。
自分がまだ若かった頃、「最近の若い者は・・。」と、年寄りたちからよく言われたものです。その年寄りたちと同じ年齢に達した今、口にこそ出さないものの、「近頃の若い者は・・。」と、つい口走りそうになる己の姿を省みて苦笑いしてしまうのであります。
やっぱり、「歴史」は繰り返すのでしょうか。否、世の中は変わらないように見えて、実は常に少しずつ変化しているのです。
それにしても、山本常朝が生きた元禄太平の時代は、現代の世相と何ら変わらないように思われます。外見こそ丁髷や腰に二本差してはいませんが。
「若者に対する年寄りの苦言」は、洋の東西を問わず、神代の昔からあったようですよ。これを、時代についていけなくなった老人の単なる愚痴・僻み、とあっさり切り捨てる見方もありますが、確かにそうした側面も否定できないにせよ、人生経験豊かな“先駆者”の意見として、傾聴に値する部分も多かろうと思うのです。
でも、「倹約心」など持つな、と教えているのは意外でした。「倹約=ケチ=利己主義」という図式なのでしょうか。反面、ある意味で首肯できるところがあります。つまり、分不相応の大金を手にすると、身を持ち崩しやすいということ。
ありがとうございました。
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