カンタータ第82番《我は満ち足れり》BWV82
「マリア潔めの祝日用」(2月2日)です。大好きなコラールがないバス独唱カンタータですが、心の安らぐ曲ですね。
礒山雅氏の解説を転載します。
「マリア潔めの祝日」の福音書章句は、救い主としての幼子イエスに出会い、心満たされて死に赴くシメオン老人の物語を伝えている。台本はこのシメオンを「私」に見立て、安らかな死への甘美にして熱烈な憧憬を歌い出した。
曲はまず、イエスを抱いた老人の感動をまざまざと伝える。ハ短調のアリアに始まる。続くレチタティーヴォで「満足」の対象は来世へと転換され、変ホ長調の子守歌へと入ってゆく。ここでの安息の表現とこの世へのきっぱりとした訣別の対比は、感動的である。
こうして魂は現世に最後の別れを告げ、協奏曲風の終結アリアにおいて死への待望を、もの狂おしいほどの喜びを込めて歌う。
東川清一氏の歌詞訳がありますので、これも転載しましょう。
☆ 第一曲 詠唱(バス;オーボエ、弦楽、通奏低音)
私はもう結構。
正しい人たちの希望である救い主を
熱い思いでこの胸に抱きしめたのだ。
私はもう結構!
私はイエスを見た、
私の信仰はイエスを抱きしめた。
いざ、私は今日のうちにも
ここを去りたい。
☆ 第二曲 叙唱(バス)
私はもう結構。
私の慰めになることはただ一つ、
イエスが私のものになり
私がイエスのものになること。
私は信仰によって彼をつかまえ、
また信仰によって私はシメオンと一緒に
もうあの世の喜びをみているのだ。
さあこの人と一緒に進もうではないか!
あゝ主よ、
私をこの肉体の鎖から放してください!
あゝ、これが私の別れなら
喜んでこの世に向かって言うであろうに、
私はもう結構、と。
☆ 第三曲 詠唱(バス;オーボエ・ダ・カッチャ、弦楽、通奏低音)
まどろむがよい、疲れ果てた目よ。
静かに、安らかに眠るがよい。
この世よ、私はもうここにはいない、
君には私の魂に役立つものは何一つないのだから。
ここにいては不幸を重ねるばかり、
だがあそこにいけば、
香しい平和、静かな安らぎをみることになるのだ。
☆ 第四曲 叙唱(バス)
私の神よ、何時その素晴らしい“いま”が来るのですか。
私は心和んで旅立ち、
そして、冷ややかな土の中で、
あなたのふところで休むその“いま”が。
お別れだ。
この世よ、さようなら。
☆ 第五曲 詠唱(バス;オーボエ、弦楽、通奏低音)
私は死を待ち望んでいる。
あゝ、今にも死がやってきてくれたら。
その時にこそ私が逃れるのだ、
この世で私を悩ませてきた一切の苦悩から。
死を待望するなんて、御身第一の人には死んでも理解出来ないでしょうね。ここでは信仰心がなせる業でしょうが、功利を超えた領域であるように思います。
CDは、ともにフィッシャー=ディースカウ歌う昭和二六年モノラル録音(リステンパルト指揮)と昭和四三年ステレオ録音(この選集;リヒター指揮)の二枚所蔵していますが、モノラル盤はシメオン老人にしては若すぎの感が否めず、専らステレオ盤のほうを愛聴しています。
ありがとうございました。
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