■ 第二十八課 孔子と孟子
今より凡そ二千五百年前、支那に孔子といふ人出でしが、智德圓滿にして、能く人を教へ、道を明らかにし、世に聖人と稱せらる。
孔子は支那の魯(ろ)といふ國生れ、幼少の頃、常に禮儀、作法の稽古などして遊戯せり。
長じて小吏となりしが、能く其の任を盡したり。後には高官に進みて魯の政治を行ひ、大いに國勢を盛んにせり。然れども魯の君、長く孔子を用ふること能はず。孔子遂に官を辭せり。
孔子には弟子三千人ありしが、其の中、特にすぐれたる者、七十二人ありき。論語は、弟子等が孔子の歿後、其の言行を記したる書にして、後世に益を與ふることを極めて大いなり。
孔子の後、約百年にして孟子出づ。孔子の孫、子思の門人なり。孔子の道を傳へて、世に大賢と稱せらる。早く父をうしなひ、母に育てらる。孟子の母は稀なる賢婦人にして、深く我が子の教育に心を用ひ、孟子をして善からぬ事を視聽きせしめざる爲めに、三たび其の居を遷せりといふ。孟母三遷の教とは是れなり。
孟子歳長じて、出でて學びしが、業未だ成らずして歸り來れり。母たまたま機上にあり。直ちに其の機を斷ち、孟子を戒めて言ひけるやう、「今汝の學を廢するは、我が此の機を斷つが如し。」と。孟子深く感じ、これより大いに學業を勵み、遂に一世の大儒となれり。かくて終身道を説き、弟子甚多かりき。其の著はしたる孟子といふ書は、論語と共に長く世に行はる。
孔孟の道は即ち儒教にして、早く我が國にも傳はれり。
・ 練 習
一、孔子のことをお話しなさい。
二、孟子の母のことを口語文でお書きなさい。
三、論語はどんな書物ですか。孟子はどんな書物ですか。
小中学校の義務教育段階では、孔孟は出てこなかったと思います。しかし、ここにある「孟母三遷の教え」等の有名な話は、小学時担任の先生からお説教を喰らうときの教訓として引き合いに出してくれました故、断片的には知っている箇所もあります。
中高等教育でも、本格的に接する場面がなかったと記憶します。戦前は、寺子屋時代から、孔孟の教えこそが“讀本”の中核だったのでしょうね。
それに引き替え戦後は、その道の専門分野に進学しない限り、孔孟に触れないまま、社会に出る結果となっているような気がします。
教育は、「知育」「徳育」「体育」の三位一体が必要と言われますが、こうしてみると、戦後教育の誤謬の一つに「知育」への偏重があるように思います。特に「徳育」を(或いは意図的に)避けてきたツケが、社会秩序の混乱を招来しているのではないでしょうか。
この件では別途、私見を開陳させていただこうと思います。
ありがとうございました。
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