第六學年用第一八課「天照大神」
一、『豐葦原(とよあしはら)の中(なか)つ國(くに)、
皇孫(すめみま)行(ゆ)きて知(し)ろしめせ。
天(あま)つ日嗣(ひつぎ)は天地(あめつち)と
窮(きはま)りなし。』と、國(くに)の基(もと)。
定(さだ)め給(たま)ひし天照(あまて)らす
神(かみ)の御言(みこと)ぞ動(うごき)なき。
二、天(あめ)の營田(つくだ)に御田作(みたつく)り、
齋服殿(いみはたどの)に御衣(みぞ)織(お)らせ、
尊(たふと)き御身(みみ)の、さきだちて、
蒼生(あをひとぐさ)のなりはひに
いそしみましし天照(あまて)らす
神(かみ)の惠(めぐみ)ぞ限(かぎり)なき。
三、蒙古(もうこ)の敵(あた)の寄(よ)せし日(ひ)も、
神風(かみかぜ)こそは起(おこ)りしか。
こと國(くに)までもことむけて、
かがやく御稜威(みいつ)まのあたり、
今(いま)も、むかしも天照(あまて)らす
神(かみ)の護(まもり)ぞいちじるき。
大分の小学校三年間、ずっと同級だった女の子が、「天照大神」の異名がありました。開業医のお嬢さんでしたが、頭がよかったです。同級会などで鹿児島大学薬学部に進学したところまで知っていますが、その後どうしているのでしょうか。
彼女、副級長を歴任、中学校でも副生徒会長を務めていました。この頃、正が男で副が女という変な不文律があったみたいですね。どちらかというと、女のほうが勉強できたように思います。
話が逸れました。「豐葦原の中つ國」「皇孫」「天つ日嗣」「御稜威」など、国史を知らない人間には、チンプンカンプンな言葉が頻出します。二十年前の自分なら、おそらく「別世界」のお話として理解不能だったかも知れません。
それを、父祖たちは小学六年生で習っていたのですから。
ありがとうございました。
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