日本の社会は、神代の昔から《滅私奉公》を是としてきた。そして、『教育勅語』の本質も、《滅私奉公》にある。その核心が、十二徳目最後の「義勇」に収斂されている、と断言できる。
《滅私奉公》の意義は、戦後の西洋的価値観でしか考察できない人々によって、不当に歪められているように思う。
《滅私奉公》とは、文字通り「私欲を減らして公(おおやけ)に尽くす」ことである。『教育勅語』も、「個人の能力を、世のため、他人のために役立てる」ことを前提に、公(社会)に役立つ私(個人)を育成しようとした、と思量する。そこでは、私益より公益が優先されるのは、当然である。
一方、西洋的価値観(特に科学的合理主義)では、論理の出発点を個人に置き、公(社会)は私(個人)の集合体と捉える傾向がある。個々人の能力を高めれば、その総和である社会の能力も上がる、というわけだ。これは、どちらが正しいという問題ではない。
社会は、決して同質な個人の集合体ではない。「国家の品格」で藤原正彦氏が言うように、チューリップが美しいからといって、世界中の花をチューリップだけにしてはならないのだ。
世の中(社会)は、役割分担の仕組みになっている。男であれば、妻への対応は夫であり、子から見れば父親であり、親に対しては子としての役割を担う。会社なら、職場や職務毎に役割が決まっているように、家庭でも社会でも国家でも、それぞれの立場の役割を分担し合って、世の中が成り立っている。
個人の能力は千差万別、適性も十人十色、だから意味があるのだ。腕力に自信がある者は、腕力のない人を腕力で助ける。有識者は、無学な人を知識で助ける。農家は、食料を供給する。製造業は、便利な製品を作り出す。サービス業は快適な生活を提供する。どんな職業に就いても、ちゃんと社会の役に立っている。何も難しいことが要求されるわけではない。《滅私奉公》といっても、自分に出来ることで、それが出来ない人を助けてあげるだけでよいのだ。個人の自由を束縛するものでもなく、西洋的価値観と対立する考え方でもない。
社会的役割分担を意識した《滅私奉公》型の戦前は、一芸に秀でることで他はよしとする教育だったのではないか。これに対し、すべてに平均点以上の等質人間を排出(あえて輩出とはしない)する金太郎飴型戦後教育は、ソ連のような愚を犯している気がしてならない。
2006年6月19日(月)の記事
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