アメリカ的な自己中心(利己)主義にかぶれた一部の者が、世の中をおかしくしている。責任を自覚したものであれば、それもよかろう。自立あるいは自律の観点から、むしろ奨励すべきかもしれない。しかし、都合のよい部分だけをつまみ食いし、無責任に妄信するのはいかがなものか。
私(自己・個人)よりも公(組織・社会)を重んじる。これが日本の国柄である。国語の語彙を知ればよくわかる。「私利私欲」「公私混同」「滅私奉公」「私物化」「私語」「私用」「私心」‥‥etc.。どれも「私」に否定的意味合いをもたせた言葉ではないか。
アメリカ流自己中心主義は、歴史が浅く広大な大地を有するがゆえの産物である。伝統的な価値観に縛られることもなく、自分の考えに合わなければ、住む場所だっていくらでもある。思い通りの人と付き合い、嫌だったら別の土地で自分に合う人とだけ付き合いはじめればよい。誰もいなければ、単独で暮らすことも思いのままだ。
狭い土地柄の日本でそれが可能だろうか。唯一、山にこもっての仙人生活ならできるかもしれない。そうでもしない限り、嫌がうえにも社会と接していかなければならない。アメリカと違って、神代から続く伝統的な精神文化もある。その代表例として、「他者への思いやり」があげられる。自己中心になればなるほど、配慮に欠けた人物と社会は見るだろう。自分に利己があれば、他人にも利己がある。だから日本社会は、私(個人)の総和としての公(組織・社会)を重んじて調和を図っているのである。社会秩序という限度を超えてはならない。自己中心主義には、自ずから公の制約がある。
2006年2月10日(金)の記事
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