韓国「ニホンノセイダーズ」と日本「アベノセイダーズ」との共通項
8/9(火) 6:03配信/現代ビジネスWEB版
■宗教問題ではない、民主主義に対するテロ
まず、安倍元首相暗殺事件は「『民主主義』に対する『暴力テロ』」である。決して、「宗教がどうのこうの」というたぐいの話ではない。
もちろん、現在色々と報道されている旧統一教会の過去行った行為を擁護するつもりはない。「霊感商法」などは社会悪と言っても良いと思う。だが、今回の「民主主義の言論の実践の場である選挙応援演説中」に卑劣な暗殺犯が「暴力(銃弾)によって国民に民主的選挙で選ばれた『国民の代表』を暗殺し、口を封じた」ということが、今回の暗殺事件の本質だということを忘れてはいけない。
1932年の5.15事件で「話せばわかる」と諭した犬養首相を「問答無用」と言い放って青年将校たちが撃ち殺した事件は、7月15日公開「『アベノセイダーズ』の罪と罰――安倍元首相暗殺が暗示する戦前昭和」で述べた。
この時が日本の民主主義の大きな岐路であったように思える。今回の安倍元首相暗殺事件がこの犬養首相暗殺事件に重なって見える。
ほとんどのメディアが、安倍元首相暗殺事件を旧統一教会(宗教)の問題に矮小化しようとしているが、「宗教と政治」をもし論じるのであれば、宗教との関係が公然の事実ともいえる「公明党」に関して、メディアがほとんど語らないのはなぜなのか?
あるいは、ウィキペディアの「Category:キリスト教系政党」には、過去のものも含めて世界の17政党が列記されている。
さらに、現在の米国大統領であるジョー・バイデン氏はジョン・F・ケネディに続く2人目のカトリック系の大統領である。
バイデン氏の教会通いの頻度がどの程度かわからないが、キューバ危機の緊張が最大に高まったころ、KGBを通じて「ケネディ大統領が教会で祈りをささげた」という報告を聞いたソ連の高官が、「核ミサイル攻撃を決断したのか!?」とパニックになったという逸話がある。
もちろん、ケネディ大統領は敬虔なカトリックであったので、「毎週」教会に通っていただけなのだが、共産主義に基づき宗教を禁止していたソ連の高官はそれがわからなかったのかもしれない。
また、バイデン氏はカトリックだが、米国を分断する「中絶問題」では、(カトリック教会の教えとは基本的に反対の)「容認派」である。
さらに、2020年6月28日公開「カトリック教会で『子供の性的虐待3000人以上』…狂信と信念の境目」や、2019年12月13日公開「ローマ教皇に言いたい、バチカンこそが難民を受けいれるべきです!」4ページ目「ナチスの教皇から共産主義の教皇へ」などのカトリック教会が引き起こした問題の責任をバイデン大統領がとるべきなのだろうか?
ちなみに、CNN7月26日の記事「ローマ教皇、カナダ先住民に謝罪 寄宿学校の虐待めぐり」によれば、カナダの寄宿学校では先住民の子ども4000人以上がネグレクト(育児放棄)や虐待のために死亡した。
結局、「宗教と政治」はもちろん重要な問題であり議論を尽くすべきだが、安倍元首相暗殺事件の本質ではないということだ。
■テロリストの記念碑は許されるのか?
それよりも、私が危惧しているのは、「民主主義の最大の敵」であるテロやテロリストに甘い日本の大手メディアを中心とした風潮である。
例えば、明治政府を牽引し現在の日本の繁栄の礎を築いた伊藤博文を、卑劣にも1909年にハルピン駅で暗殺したのが安重根というテロリストである。
ところが、この安重根の記念碑が宮城県に存在(みちのく悠々漂雲の記/宮城県)し、県によって案内看板が設置されている。
詳しくは、和田政宗議員の「安重根をたたえる記念館等に関する質問主意書(参議院、質問第一六三号:)を参照いただきたいが、この話を聞いた時に耳を疑った。(なお、答弁書は「答弁書第一六三号」を参照)。
8月2日のBBCニューズで「アメリカ、アルカイダ指導者アルザワヒリ容疑者を殺害 アフガニスタンでドローン攻撃」と報道されているとおり、9.11テロを主導したアルカイダに対する米国の態度は大変厳しい。2011年には、オバマ政権によってビン・ラディンも殺害されている。
例えば、その米国で「ビン・ラディンの記念碑」を建設しようとしたらどのような反応になるか簡単に想像出来るであろう。ところが、日本で実際に同じようなことが行われているのである。
これでは「日本はテロ容認国家」であると海外から白い目で見られても致し方ない。
■メディアの「言葉の暴力」を許してはならない
SAKISIRU2022年7月17日の「朝日川柳、安倍元首相の国葬“ネタ”にして大炎上」の副題は「『さすがにこれはひどい』元朝日記者の選者に非難殺到」だが、まったくその通りである。
「言論の自由」は広く認められるべきものだが、何事にも限度がある。また、「報道の自由」と言う言葉がよく使われるが、メディアが自由に報道する権利というのはあくまで、国民に与えられた「言論の(国民の知る)自由」の一部にしか過ぎない。
国民は「知る権利」を持っているから、その範囲内で自由な報道も認められるべきなのである。日本国民が民主的手続きで選んだ首相経験者を、「卑劣な暴力で口を封じられた」後に鞭打つことが「国民の知る権利」と関係があるわけがないから、朝日新聞の前記行為は「報道の自由」を逸脱した行為だ。
言ってみれば、色々なサイトで汚い言葉を投げつけ、場合によってはNHK2020年6月4日記事「木村花さんの死が問いかけるもの」を引き起こす人々と朝日新聞は変わらないといえる。
実際、前述1932年の5.15事件以降、日本の軍国主義を煽ったのは、朝日新聞を始めとする大手新聞(1940年以降は大政翼賛会が結成される)社であり、「アベノセイダーズ」ならぬ「キチクベイエイ(鬼畜米英)ノセイダーズ」を組織していたのだ。現在の地上波テレビ局のほとんども、これらの新聞社に起源を持っている。
考えてみれば、彼らの手法は戦前と変わらない。「キチクベイエイ(鬼畜米英)ノセイダーズ」が、「鬼畜米英には何をしてもいいんだ」というヒステリックな国民感情を煽ったのと同じように、「アベノセイダーズ」が「安倍首相には何をしてもいいんだ」というヒステリックな感情を煽ったのだ。
過去の「キチクベイエイノセイダーズ」は、適性国家の言葉である英語を敵視し、野球のストライクを「良し」とするような馬鹿げた言い換えを行っていた。
そして、世界中の国々から数えきれないほどの弔意が示され、同じく凶弾に倒れたマハトマ・ガンジーのように世界の歴史に残るであろう人の国葬を「『アベノセイダーズの敵』だから認めない」というのも同じように愚かな行為だ。
戦前我々が行うべきであったのは、ただ「鬼畜米英」と叫ぶだけではなく、「相手を理解するよう努力し、忍耐強く話し合いを続ける」ことだ。ところが、「アベノセイダーズ」は、「相手を理解することも、民主主義的話し合いもせず」ただ、「お前をたたき切ってやる」とか「アベ死ね」というような汚い言葉をヒステリックにわめくだけだ。
メディアを中心としたこのような状況はまさに戦前のデジャヴであり、大変危険なことだ。
■「他人を尊重しない」ことが共通項
結局、「キチクベイエイノセイダーズ」や「アベノセイダーズ」は、自分と対等の人間として相手と向き合うことができず、自分の身勝手な意見をぶつけるサンドバックとしてしか相手を見ることができない。相手の心の痛みがわからないのだ。もちろん「思いやり」のかけらもない。
また、彼らは自己反省ゼロで、ひたすら相手の非を探し出して(捏造して)喚き散らすから、心が歪んでいく。これこそが「相手を尊重して話し合う」民主主義の危機だ。こんなことがまかり通れば「問答無用」で殺しあう時代が確実にやってくる。
例えば、8月1日の「外国人住民投票権のツイートをした金井米穀店が活動家から迷惑デモ行為を受ける」というアゴラの記事がある。要するに、金井米穀店がツイートした内容に対して、抗議者が店舗前やその周辺に集まってきて、営業ができないように圧力をかけた事件である。
前述、和田政宗参議院議員のフェイスブックのコメントでは「店舗前での執拗な抗議活動は、威力業務妨害との指摘があり、入店時に写真を撮られ怖かったとの証言もあります」とのことだから、「言論の自由」「表現の自由」をまったく逸脱した「常軌を逸した行為」と言わざるを得ない。
このような問題は、安重根以来の「ニホンノセイダーズ」においても同様だ。
日本(人)は寛容だから、「あなたが悪い」と言われると「ニホンノセイダーズ」達とは違って、「もしかしたら私に非があるかも……」と考えがちだ。これは素晴らしいことだが、「ニホンノセイダーズ」はそこに付け入るのだ。
7月10日公開「日韓関係改善ムードだそうだが、まず韓国の謝罪と償いがスタート地点」という状況にも関わらず、いまだに韓国が日本に謝罪を求めるという見当違いをしているのも、これまで「ニホンノセイダーズ」が韓国で増殖するのを放置してきた日本政府にも責任がある。
会津藩の「什の掟」の「ならぬことはならぬものです」という言葉は有名だが、我々は今こそこの言葉によって「ニホンノセイダーズ」を始めとする「ナントカノセイダーズ」に対して毅然とした態度で接するべきではないだろうか。
寄稿者;大原 浩(国際投資アナリスト)
コメント総数;78件
一、そうだよなあと思う点が非常に多いです。
ただ、どちらの「セイダース」も
背後に特定のプロパガンダが潜んでいる
と思っているので、
ヒステリックに攻撃する事が
無くなるとは思えません。
ただ、メディアの記事に対しては、
「どういう立場の人が」
「どういう意図を持って」
発しているのかというのを
チェックしながら見たいものです。
せっかくネット時代だしね。
それを苦々しく思う人々もいるのだろうけど。
二、一理はあると思う。
なにも考えずに叩けばいいと思っている人。
でも逆もしかり。何故嫌われる?非難される?
与野党の歩み寄りってどれほど?
対立軸になるならお互いがどれほど理解できるか?だろう。
それでも実際はなかなか無理だろうけど。
三、しかしこの筆者も散々「民主党セイダーズ」を記事にして生計を立てているから、あまり人のことを言えないと思うけどね。
******************************
目下売り出し中の大原流「〇〇ノセイダーズ」節炸裂ですな。けれども、同調者のほうが意外に少なく、コメント「三」ではむしろ筆者の言動(生き様)が揶揄されてしまう始末。皮肉にも、こうした闊達な遣り取りこそが〝民主主義″であり〝言論の自由″だと思う。ただ、「民主」・「自由」・「人権」・「平等」など、尽く西洋起源、しかも近代になってからの新しい思想に過ぎない。我ら日本人なら、ここは御先祖様(原日本人=縄文人)の視点で考察したい。
我国の古称「大和国」が示すように元来が〝大いなる和らぎの國″である。聖徳太子『十七條憲法』(660年)の第一條で有名な〝和を以て貴しとなす″が出て来るが、何分にも仮名が未だない時代ゆゑ、原文は漢文で「以和爲貴」とあるだけである。概ね「和」の文字を〝わ″と音読みさせる解釈が主流だが、果たしてそうだろうか。訓読み(大和言葉)では〝やわらぎ″〝なごみ″〝あえ(別物と調和させる)″〝なぎ(風が止んで穏やかになる)″などと読ませるらしい。従い、〝やわらぎ″か〝なごみ″と読むのが正解ではなかろうか。
要するに我らが祖先は、争い事をなるべく避け、周囲に溶け込むようにして安穏な暮らしを志向していたことが窺える。もともと漢字の「和」は、熟語としても「和睦」「和合」「平和(和平)」「和気藹藹」など〝穏やか″とか〝仲良くする″意味合いを含んでいるから、音読みしても大して差し支えなかろうが・・・。
ところで、日本語は世界で最も語彙数が多い言語なのだとか。その一つに婉曲語法がある。例えば「悪い」という挑発的な言い方を避けて「良くない」という穏やかな言い回しに換えるように。これは、相手の心情を慮る態度の表れでもある。
ここで笑い話。インドネシア旅行に際しての現地日本語ガイドとの遣り取り。ガイド氏は頻りと私奴に尋ねてくる。
ガイド氏 「クロさん、大きい石のことを日本語で何と言いますか。」
クロ つまらない質問にうんざりして「大石でしょうが。」
ガイド氏 「・・・。じゃあ、小さな石は?」
クロ 「小石に決まってるでしょう。」
ガイド氏 「・・・。」
後になって分かったことだが、ガイド氏が期待していた答えは「岩」と「砂」。もちろん、知らないわけではないが、日本人同士なら有り得ない質問なので、「大きい石」とくれば発作的に「大石」、「小さな石」なら「小石」と最も安易な言い方しか思い浮ばなかったわけであります。お恥ずかしい。
閑話休題。日本的かどうかの判断基準は、対手本位(利他主義)の行為(言説)かどうかに尽きる。そうすると、「ニホンノセイダーズ」も「アベノセイダーズ」も「ミンシュトウノセイダーズ」の何れも他人のせいにしているのだから自分本位(利己主義;エゴイズム)の言説であることが分かる。つまり、日本的とは言い難いところに共通点があるというわけ。
【利己主義】
社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する考え方。
また、他人の迷惑を考えずわがまま勝手に振る舞うやり方。エゴイズム。
【利他主義】
利己主義に対して、他人の幸福や利益を図ることをまず第一とする考え方。
【利他主義】というと、神仏に近い行為なので、さぞかし難行・苦行と思われがちだが、意外にそうでもない。例えば高校野球で、自校が勝ったとして、勝ち誇ることなくむしろ敗れた相手校の健闘を褒め称えるなどはmその第一歩である。こうした他者に対する思い遣りの心が、自然な感情として表出できるのは、縄文時代から培われた我らの伝統的な国民性だからである。
コメント