戦前の上海を拠点とする現地歌謡曲の隆盛を総称して「中国時代曲」と呼ぶ。戦後になって中華人民共和国成立(1949年)に伴い、共産主義を嫌った関係者の殆どが英国領香港に逃れた。その後暫くは、香港が「中国時代曲」の拠点となる。ところが今日、本場の上海はおろか香港も赤化の波に呑まれ、昔日の面影すら残っていない。僅かに台湾人歌手に唄い継がれているだけである。なお、録音はフランスPathé社(現EMI;百代唱片)が一手に担っていた。
時代を追って歌手ごとに、オリジナル音源とそのカヴァーヴァージョンなどを聴いてみよう。
周璇(1920-1957年)
この人こそ、中国時代曲の第一人者と言ってよいだろう。共産化された後も、中国国内に残った数少ないタレントである。が、銀幕上の華やかさとは裏腹に、私生活は悲惨だったらしい。
この人を有名にしたのは、何と言っても映画『馬路天使(邦題「街角の天使」)』(1937年)だろう。1980年代、「現代中国映画上映会」という組織の会員だったこともあり、千代田公会堂だったか何処かで実際に観たことがある。当時17歳だった彼女のデビュー作であろう。この映画の挿入曲が有名である。
「天涯歌女」(『馬路天使』挿入歌) -周璇
作詞;呉村/作曲;黎錦光
作曲者黎錦光と言えば、我国では李香蘭(山口淑子)が歌った『夜来香』(1944年)のほうが有名である。
「四季歌」(『馬路天使』挿入歌) -周璇
作詞;田漢/作曲;賀緑汀
田漢は本来劇作家だが、中国国歌『義勇軍行進曲』の作詞者として一躍有名人になった。しかし、後年の文革中に、彼の歴史・文化観が多分に日本的であるとして糾弾・投獄され、獄死(1968年)している。作曲者聶耳も留学先の日本・湘南海岸で水死(1935年)している。享年28歳。田漢を含めて戦前の有望なシナ青年は、当時の先進国であった日本から学ぼうとしていたのである。こういう若い芽を尽く潰していったのが蒋介石中国国民党であり毛沢東中国共産党なのですよ。
もう一首、我国ではこちらのほうが広く人口に膾炙したと思われる歌を。
「何日君再來(邦題「きみ何時の日帰る」)」(映画『三星伴月』挿入歌)-周璇(1937年)
作詞;貝林/作曲;劉雪庵
映像はないが、これも映画挿入曲である。「君」と「軍」が偶々同じ音であることから、〝何日軍再來(いつ日本軍が戻って来る)″とこじつけられて当時(中国国民党政権)から歌うことが禁じられていたのである。
後述するカヴァー盤を見れば一目瞭然だが、何れの曲もシナ大陸では発禁歌同然の扱いになっている。
オリジナルに比してオバサン声なのが興醒めだが、トラディショナル楽器を使った伴奏が、期待するチャイナムードを醸し出して割かし気に入っている。林淑容さんは戦後台湾(というより「中華民国」)生まれ、これはマレーシア盤音源(ペナン島で買った)だが、シンガポール、マレーシアなどでも活動しており、一定の人気を得ているようだ。
「四季歌」
靜婷・逸敏・干飛・姚莉
上海時代周璇さんの同僚歌手たちが歌っている。香港に逃れたグループで、録音年不詳なるも、想像するに、周璇追悼盤として1957年頃発売されたのではなかろうか。本来、明るい曲調なのに、懐メロ風の編曲も然ることながら、歌声が哀しく聞こえてならない。
「何日君再來」
・渡辺はま子盤(1939年)-作詞;長田恒雄
歌詞が日本語である点を除けば、これがオリジナル盤に最も近い。源映画公開から僅か二年しか経っておらず、懐メロ風の妙な細工が施されてないのがよい。
・李香蘭(山口淑子)盤
録音年不詳ながら、レーベルが〝上海百代唱片″なので、オリジナル盤との録音年差は殆どないと思われる。山口淑子さんも周璇さんとは或る意味同僚(同い年)だったわけだ。終戦直後まで、中国内で李香蘭を騙って活動していたため、漢奸容疑で中国国民党軍の軍事裁判に遭うが、日本人であることが判って国外追放になり帰国している。
訂正>レーベルは「夜来香」のもののようです。ごめんなさい。
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