戦後の新作はないものの、文部省唱歌が大好きである。戦前義務教育課程は、「国語(日本語)読本・綴り方」「修身(倫理・道徳)」「国史(日本史)」「唱歌(音楽)」など、我国の風土や伝統文化に則した内容になっていた。とりわけ「唱歌」は、西洋の讃美歌にも似て崇高な気分に導いてくれる。自分は戦後生まれなので習わなかった歌のほうが多いが、それらの曲を聴いても何故か故郷へ戻った懐かしさを覚える。
尋常小学唱歌 第五学年用『三才女』
作詞:芳賀 矢一
作曲:岡野 貞一
一 色香も深き 紅梅の
枝にむすびて 勅なれば
いともかしこし 鶯の
問わば如何にと 雲居まで
聞え上げたる 言の葉は
幾代の春か かおるらん
二 みすのうちより 宮人の
袖引止めて 大江山
いく野の道の 遠ければ
ふみ見ずといいし 言の葉は
天の橋立 末かけて
後の世永く 朽ちざらん
三 后の宮の 仰言
御声のもとに 古の
奈良の都の 八重桜
今日九重に においぬと
つこうまつりし 言の葉の
花は千歳も 散らざらん
曲名の『三才女』とは、平安時代の女流歌人紀内侍(きのないし)・伊勢大輔(いせのたいふ)・少式部内侍(こしきぶのないし)を指す。各々が詠んだ和歌や故事(逸話)が歌詞に織り込まれている。歌詞順に見てみよう。
一、(紀内侍)
紀内侍は紀貫之(きのつらゆき)の女(むすめ)。父貫之は『古今和歌集』選者の一人。三十六歌仙(柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持、猿丸大夫、僧正遍昭、在原業平、小野小町、藤原兼輔、紀貫之、凡河内躬恒、紀友則、壬生忠岑、伊勢、藤原興風、藤原敏行、源公忠、源宗于、素性法師、大中臣頼基、坂上是則、源重之、藤原朝忠、藤原敦忠、藤原元真、源信明、斎宮女御、藤原清正、藤原高光、小大君、中務、藤原仲文、清原元輔、大中臣能宣、源順、壬生忠見、平兼盛)にも名を連ねている。
歌詞は「鶯宿梅」の故事から採譜されている。
【鶯宿梅】-おうしゅくばい-
「大鏡」などに見える故事。村上天皇の時、清涼殿の前の梅が枯れたので、京のある家からもってきて移し植えたが、その枝に「勅なればいともかしこしうぐひすの宿はと問はばいかが答へむ」という歌が結びつけてあった。天皇はその家の主が紀貫之の娘の紀内侍であったことを知り、深く恥じてその木を返したという。また、その梅の木。
父は橘道貞(たちばなのみちさだ)、母は和泉式部(いずみしきぶ)。母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した。そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。女房三十六歌仙の一人。
歌詞は小倉百人一首第六十番歌から採られている。
当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、四条中納言(藤原定頼)は歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に「代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などとからかったのだが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだ。意味としては「大江山(大枝山)を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので(または、大江山に向かって行く野の道・大江山の前の生野への道が遠くて、大江山の向こうの)、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」であり、「行く野・生野」「文・踏み」の巧みな掛詞を使用しつつ、当意即妙の受け答えが高く評価された。四条中納言もまた小倉百人一首に選ばれているほどの歌人であったが、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻き、この一件以後小式部内侍の歌人としての名声は高まったという。
伊勢大輔は大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の女。一条天皇の中宮・上東門院藤原彰子に仕え、和泉式部・紫式部などと親交し、晩年には白河天皇の傅育の任にあたった。
代表作の小倉百人一首第六十一番歌が歌詞に織り込まれている。
小倉百人一首と言えば、正月かるた取りの定番だが、男児は凧揚げ・独楽廻し・メンコといった野外遊戯主体だから、かるた取りは不得手。しかし、昔の人はこんな形で和歌を嗜んでいたとは、教養が高かったのですね。因みに自分は今回調べるまで三首の和歌はもとより、三才女の名前すら知らなかったのですよ。お恥ずかしい。
どちらかと言えば、数少ない女児向け唱歌だが、好きですねえこういうの。
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