【書評】何をするにも声高で傲岸な現代中国が最も掬(きく)すべき孫子の警告
12/31(金) 16:15配信/NEWSポストセブン(講談社)WEB版
【書評】『新訂 孫子』/金谷治・訳注/岩波文庫/726円
【評者】山内昌之(神田外語大学客員教授)
『孫子』は永遠の古典である。軍事だけでなく、政治外交でも示唆を受ける書物にほかならない。現実に、いまの中国共産党と中国政府は、孫子の読み方を自家薬籠中のものにしている。正攻法や陽動戦、陰謀や情報収集の限りを尽くす才において、さすがに孫子を生んだ国だと思うことが多い。
そもそも孫子は、戦上手とは敵に前軍と後軍との連絡ができないようにさせ、大部隊と小部隊が助け合えないようにさせることだと洞察した。
そのうえで、身分の高い者と低い者が互いに救いあわず、上下の者を相互に助け合わせないようにさせ、兵士たちが離散して集合しても整わないようにさせるのが要諦だというのだ。こうしておいて、味方に有利な状況になれば行動を起こし、優勢な情況にならなければじっくりと機会を待つのである(「九地篇第十一」)。
これなどは、日本はじめ関係国の政治家や実業家や知識人に強い支持と礼賛のコアを作り、初めは小さくても、だんだんと勢力圏を拡大するなかで、中国の戦略的利益を確固とする政治手法につながる。それらの国は気がつけば、国内世論が寸断され、昨今では港湾や土地がかつて中国が経験したような租借地に似た様相を呈してしまう。
もっとも孫子は、将軍たる者はもの静かに奥深く仕事をすべきだと述べ、軍の計画を公然と外に知らせないことが肝要だと注意している。しかし、最近の中国共産党は何をするにも声高かつ傲岸にすぎるのではないか。
形勢に応じた変化、状況によって屈伸させる利益とは、自己主張を強くするあまりに周囲の友人・友邦を失わないことを意味する。「人情の理は、察せざるべからざるなり」と。人間の情の自然な道理については、十分に考えなくてはならないというのだ。この孫子の警告は、現代中国がもっとも掬すべき点ではなかろうか。
※週刊ポスト2022年1月1・7日号
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一、孫子の特徴は戦国時代に成立しているという点。日本における戦国時代と似たような環境。
そのこころは、超大国2国による天下争奪戦ではないという点。
下手に戦争をして、勝ったとしても損害が大きければ、第三国に滅ぼされる可能性があるという点。
成立の前提であるこの条件を知らないと孫子の意味は分かりづらい。
バトルロイヤルと表現されることもある。
この前提があるから、兵は神速を貴ぶとか、無駄に戦争をするなとか、戦争にまつわる書物でありながら、戦争を戒める格言が多い。戦争を禁じているというより、戦争をして他国に攻め滅ぼされる戦国時代特有のリスクをきちんと評価している。
クラウゼヴィッツの戦争論も引き合いに出されるが、あれは欧州における近代的な大国が成立した後であり、他国を完全に滅ぼすという発想がないという点でかなり性質が異なる。
二、巷には、「孫子の兵法を読む」といった分厚い解説書が溢れているが、この岩波文庫の『孫子』を見れば分かる通り、元々『孫子』はページ数が少なく、とても読みやすい。それでいて、内容は非常に具体的で分かりやすく、2500年前の書なのに現代的である。
そのため、よくある孫子の解説書よりも、岩波の原本をそのまま読む方が良いと思われる。
三、孫子は兵を語りながら実は人生を語っている。どう生きれば良いか、職場や様々な人間関係の中で。その悩みにふとしたヒントを与えてくれる書である。だから、この書は2000年以上様々な角度から読み継がれてきたと思う。彼が生きた春秋戦国時代は、儒家,道家など魅力的な思想が多く生まれた。それは中国全土が権力分立という状態と関係があると思っている。今の中国は独裁政権。これでは魅力的な思想や考えは生まれないだろうし、彼らも真面目に孫子を勉強していないだろう。
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孫子(BC500年代)は仏教伝来以前の軍略家だが、後に支那朝鮮へも仏教が伝播したにも拘わらず、結局定着しなかった。周辺諸国(チベット・南モンゴル・ウイグル・東南アジアなど)では、仏教・イスラム教など、世界三大宗教が普及しているのにだ。まぁ、儒教という独自宗教があるにはあったが、飽くまで立身出世の道具に利用されただけで、実生活では全く活かされていないのが実情だ。田中英道東北大名誉教授によると、儒教の始祖孔子(BC552-479)は、当時の支那人が倫理道徳観がまるでないのを嘆き、東夷(日本)に憧れていたのだとか。
引用文は「書評」だから岩波文庫『新訂孫子』の内容そのものではなく、飽くまで評者山内氏の個人的な所感に過ぎないことは言うまでもない。
【所感】
①《仏教語》前世での行為が、その結果としてもたらすもの。
②取得すること。現物を手に入れること。
③感じるところ。心に感じる思い。心に感じたこと。感想。
辞書③の意味で遣った「所感」だが、他の意味もあるとは知らなかった。とりわけ仏教語としての意味が興味をそそる。
話が逸れた。当該書を読んだことはないし孫子についても殆ど何も知らないが、孫子(歴史上の人物)と現代中国共産党を同列視するのは無理がある。何故なら中共は、過去を否定することでレジテマシー(正統性)を主張してきた連中ではなかったか。文革の最中に歴史的文物が大量に破壊されたことは衆目の知るところである。
ここで台湾の文筆家黄文雄氏の言葉を想い出す。氏は日中の文化的特質を「誠(日本)」と「詐(中国)」の漢字一文字で評している。常に争奪戦を繰り返す大陸に対し、争いを好まず互助互恵型高信頼社会を築いてきた我国とでは、歴史的経緯が真逆とあっては当然の帰結であろう。、我ら互助互恵型社会を生きる者には理解し難いことだが、彼国は権謀術数渦巻く社会、極論するなら騙さなければ騙される相互不信で成り立つ世の中なのだ。
そんな土地柄なればこそ、道徳もヘチマもなく、エゴイズム(利己主義)に奔らざるを得ない。やらなければやられるから他人に構う余裕すらないのだ。先述の如く孔孟は倫理道徳を説いたが、シナでは定着しなかった。儒教道徳が華開いたのがシナとは真逆の精神文化を有する我国であったことは、何も歴史の皮肉ではない。「衣食足りて礼節を知る」と言うではないか。シナに比べて我国は、昔から物心両面で豊かであった証左なのかもしれない。
中国共産党の最大の弱点は〝栄光の歴史゛が存在しないことにある。我国戦前・戦中の歴史について、噓八百並べ立ててまで貶めるのも自身に誇れる事績がないことへの反動である。おのれの存在意義を認めさせるために、嘘を吐いてまで近隣諸国を悪玉に仕立て上げ、必死に相対化を謀っているのだ。毛沢東・鄧小平時代の中共は、日本政府や皇軍を悪し様に罵ることは決してしなかった。我国を味方に取り込みたい一心で控えていたと言えなくもないが、大日本帝国の強さを目の当たりにしてきた、というのがホンネだろう。彼らの後進が靖国神社を「軍国主義の象徴」などと中傷誹謗するのも、裏返せば゛護国の英霊゛に対する畏怖心の顕われなのだ。中共側の日中友好ムード演出は、日中国交樹立(1982年)時点での国力差を考慮すれば当然のことであった。
この日中友好ムードに我国はすっかり騙されてしまった。次世代の江沢民・胡錦涛時代に入ると、経済成長を遂げるに従い、一転して反日(先方では「抗日」と称する)に豹変する。戦争を知らない現習近平時代に至って傲岸不遜ぶりが一層激しくなってくる。砂上の楼閣に過ぎないおのれ(中共)の立ち位置も弁えず、終には過信してしまったのである。彼は鄧小平より毛沢東路線の信奉者である。共産主義理念からすれば、鄧小平の改革開放路線は保守反動なのだ。今一度、革命が必要、という気になるのも解らないではない。
だがしかし、習近平政権が目論む道筋を儒教に照らすと、正道としての王道(徳治政治)に非ずして、邪道でしかない覇道(武断政治)を歩もうとしていることは明明白白である。共産主義に照らしても、打倒すべきブルジョワ階級(≒富裕層)を誰あろう今や中共幹部自身が占める倒錯した社会構造を如何にとやせん。表向きはプロレタリア階級(≒貧困層)の味方を繕おうと、実は敵(富裕層)に与する不逞の輩であることを、口にこそ出さねど一般人民が見透かしてしまった今日、体制維持の妙案などあろうはずもない。中共は国内外に余りにも多くの敵(かたき)を作り過ぎた。山内氏の疑念通り、中共は嘗ての西洋列強の悪しき行状を猿真似するだけで、歴史から全く何も学ぼうとしていない。ひと言で結論付けるなら、中国共産党に謀謀術数あれど学問なし、ということだ。人倫に背いて打算のみに奔るとどういう結果を招来するか、御釈迦様でなくとも歴史が証明している。
斯くして中国共産党は滅び行く。『平家物語』が語るが如く、真に゛驕れる者久しからず″、〝盛者必衰の理をあらはす″のだ。「策士、策に溺れる」の俚諺は、現代中国共産党にこそ相応しい。因みにこの諺は、近代(明治期)に入って我国独自に流布した言葉で、シナ古典には載っていない。
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