亞細亞諸國との和戰は我榮辱に關するなきの説
福澤諭吉
~前略~
近日世上に征韓の話あり。一と通り聞けば伐つ可き趣意もなきに非ず。野蠻なる朝鮮人なれば必ず我に向て無禮を加へたることもあらん。道理を述て解すこと能はざる相手なれば、伐つより外に術なしと云ふ説もあらん。加之これを伐たんと云ふ輩は敢て私心を挾むに非ず、愛國盡忠の赤心を事實に顯はさんとすることなれば、一概に之を咎む可らずと雖ども、國を愛するには之を愛するの法なかる可らず、忠を盡すには之を盡すの路を求めざる可らず。其法と路とを求るには、心を靜にして永遠の利害を察すること最も緊要なり。彼の手足の怪我を見て狼狽するが如きは思慮の足らざる人と云ふ可し。
朝鮮交際の利害を論ずるには先づ其國柄を察せざる可らず。抑も此國を如何なるものぞと尋るに、亞細亞洲中の一小野蠻國にして、其文明の有樣は我日本に及ばざること遠しと云ふ可し。之と貿易して利あるに非ず、之と通信して益あるに非ず、其學問取るに足らず、其兵力恐るゝに足らず、加之假令ひ彼より來朝して我屬國と爲るも、尚且之を悦ぶに足らず。蓋し其故は何ぞや。前に云へる如く我日本は歐米諸國に對して竝立の權を取り、歐米諸國を制するの勢を得るに非ざれば、眞の獨立と云ふ可らず。而して朝鮮の交際は假令ひ我望む所の如くなるも、此獨立の權勢に就き一毫の力をも増すに足らざればなり。
朝鮮は彼より來朝して我屬國と爲るも之を悦ぶに足らず。況や事を起して之と戰ふに於てをや。之に勝て榮とするに足らず、之を取て利するに足らず。巨萬の軍用金を費して歐米の物を仰ぎ、歐米の船艦を買ひ、歐米の銃砲を求め、錢を歐米の人に與へて物を朝鮮の國に費し、結局我外債の高を増して、毎年海に投ずるに等しく償金を拂ふに等しき利足を外國に輸出するに過ぎず。青年の書生と雖ども、數學の初歩を學び得たるものなれば、明白に解す可き算當に非ずや。永遠の利害を察するとは此邊の損得を思慮することなり。愛國の至情を擴て獨り自から沈思せば必ず大に發明することあらん。方今我國は正に借金の敵に向て戰ふ可きの秋なり。先づ此勁敵を壓倒して安心の地位を作り、砲艦の戰の如きは他日徐々に其謀ある可きなり。
征韓論者の云く、征韓は固より好む所に非ざれども、既に雙方の間に釁を開く上は、一國の榮辱に於て捨置く可らず、大義名分は金のために誤る可らずと。一應尤の言なれども、前に云へる如く、我日本は親の病氣にも等しき歐米交際の困難なるものを抱けり。今親の大病にて家内を靜謐にせざる可らざるの時に當り、門外に折助が亂妨喧嘩するとて、之に取合ひ、之と爭鬪して、家内の靜謐を妨げ、親の病氣に害を加ふ可きや。人心ある子弟ならば理も非も問はずして何事も後日の事に附し、其折助へは酒手にても取らせて追ひ返し、穩便に取扱ふこそ孝子の處分と云ふ可けれ。今の朝鮮人の無禮は折助の亂妨に異ならず。之を度外に置くも何ぞ國の榮辱に關することあらんや。論者は我日本をして折助と鬪はしめんと欲する乎。余輩は本國のために却て之を恥るなり。
論者又云く、朝鮮は目的に非ず、朝鮮に事を始て次で支那に及ぼし、支那の富を取て以て今日の費を償ふ可しと。盛なる哉、此言や。支那をして孤立せしめなば此言或は當る可しと雖ども、今日世界の有樣に於て支那は決して孤立するものに非ず。支那帝國は正に是れ歐米諸國人の田園なり。豈他人をして貴重なる田園を蹂躪せしむることあらんや。事こゝに至らば、歐米の人は支那人を憐むに非ずして、自から貿易の利を失ふを惜み、自から利するの私心を以て支那を助るや必然の勢なり。假令ひ自から利するの私心なきものとするも、嫉妬の念を以て必ず他の所業を妨ることある可し。今を去ること十餘年、魯西亞人が對馬に上陸して地を占めんとせしとき、英の公使は力を盡して之を防ぎ、遂に其地を去らしめたることあり。當時英公使の盡力は日本の爲にしたるに非ず。英國の面目として、魯人の日本に地を占るを惡み、其權力を嫉て之を妨げたるのみ。萬國の交際に於て權力を平均せしむるものは嫉妬の念に生ずること多し。此亦心得ざる可らず。されば日本人の思ひの儘に朝鮮に勝ち、朝鮮丈けは外國人が傍觀するものと假に定るも、支那に至りしとき日本人が四百餘州を蹂躪するを見て手を拱することあらんや。是れも永遠の事なり。今より考へざる可からず。
是に於てか愛國盡忠の輩は人事の輕重大小を辨別し、志を遠大にして眞に我國の獨立を謀り、亞細亞諸國の交際に於ては和戰共に我獨立の權力に差響くことなきを知り、我獨立は歐米に對立して始て滿足す可きを知り、此獨立は學問と商賣と國財と兵備と四者各其釣合を得て始て安心の場合に至る可きを知り、亞細亞諸國との和戰に由ては四者を目的として一も所得ある可らざるを知り、加之戰へば必ず此四者を退歩せしめ、殊に國財の如きは第一番に不足を生じて却て外債を増す可きを知り、今日朝鮮の事件は恰も手足の疵の如くして深く憂るに足らず、其無禮は恰も折助の亂暴の如くして之を度外に置く可きを知り、歐米の交際は肺病の如くして早晩必死の患ある可きを知り、國の榮辱は一朝に在ずして永遠に在るを知り、愛國の志あるも愛國の路を求むるの緊要なるを知り、一朝の怒を忍て他日大に期する所あるこそ、眞の日本人に非ずや。人誰か愛國の至情なからんや。余輩も日本國中の人民にして、國の一部は自から擔當する者なれば、只管他人の好尚に雷同するを得ず。敢て愛國の趣を述ること斯の如きなり。
論者又云く、征韓論の人心に萌芽するや日既に久し、焔々の氣鬱結して遂に臺彎の師と爲り、其餘焔尚消滅せずして遂に今日に至りしものなれば、何れにも其流通の路を設けざる可らず、即ち今日の事は鬱焔を洩らし滯水を通ずるの權道にして、勢こゝに至れば止んと欲して止む可らざるものなりと。其意味を察するに、此論者は前の二論者に比すれば全く所見を別にしたる者にして、中心征韓の非を知り、國の獨立のために實に害あるを辨じながら、唯勢に迫られて止むを得ざるの策に出で、止むを得ざるの拙を行ふと云ふものゝ如し。余輩は甚だ以て不同心なり。抑も征韓論とは何れより來りしものなるや。天より降るに非ず、地より生ずるに非ず。征韓を以て日本國の利益と思ふ人の口より出たる議論なり。其人は木石に非ず、水火に非ず。正に人心を具して道理を辨ず可き人類にして、然かも愛國の情に乏しからざる人物なれども、唯其所見近淺にして方向を誤るのみ。今若し此人の心をして方向を改めしむるを得ば、征韓論は立所に止む可し。論者若し征韓の非を知らば何ぞ直に其非を述べ、或は書に記し或は言に發し公然と之と唱へざるや。一點の愛國心に符合する所あれば、異説爭論も遂には一に歸せざるを得ず。然るに今其沙汰もなく、唯此論者の如く世間の人氣を測量して、或は其餘焔を洩らすと云ひ、或は其渟滯を通ずると云ひ、人を視ること水火の如く、手術を以て之を御せんとするは、同權の人類に對して無禮なりと云ふ可し。抑も亦彼の征韓論者の少年輩も、其熱中の甚しきに至ては、或は水火の如き勢もありて、水火の如く御せられて申譯なき場合もあらん乎、誠に氣の毒千萬なりと云ふ可し。人は此世に居て他の拙を憂へて其不足を補ふ樣にこそありたきものなれ。然るに己が熱心の甚しきよりして、他人のために憂へらるゝの目的と爲るとは淺ましきことならずや。少しく勘辨せざる可らず。兎に角に政治學者の權謀術數は余輩の知る所に非ず。余輩は日本國中の良民たる地位と面目とを全ふせんがため、亞細亞の和戰は國の榮辱とするに足らず、朝鮮の征伐は止む可しとの説を主張し、之を天下の公議に附して、一人たりとも此説に同意する者多きを願ふなり。
明治八年(1875年)十月七日「郵便報知新聞」社説欄
福沢諭吉の思想(国家観)を知るには、意義ある論文である。幕末から明治にかけて西洋を見聞した若き志士の一人だが、彼の思想についてはやや誤解があるように思う。「脱亜入欧論」も、飽くまで独立不羈を堅持するための富国強兵論に過ぎず、「西洋に学べ」と説いても「(我国を)須く西洋化すべし」とまでは言っていない。要するに「和魂洋才」なのだ。そこが、西洋近代主義思想を無批判に妄信する思想なき現代人とは決定的に異なる。
近代我国に於いて、政体(國體ではない)が変わったのは、明治維新であるが、「革命」でなく「維新」と呼ばれるのはなぜか。
【維新】ゐしん
出典-《「詩経」大雅の文王から。「維(こ)れ新(あらた)なり」の意》
・すべてが改まって新しくなること。特に、政治や社会の革新。
【革命】かくめい
出典-《「易経」革卦の「湯武命を革(あらた)め、天に順(したが)いて人に応ず」から》
・被支配階級が時の支配階級を倒して政治権力を握り、
政治・経済・社会体制を根本的に変革すること。
革命は一種の下剋上だが、維新はそうではない。下級武士が倒幕し、明治政府を支えたわけだが、江戸時代の士農工商(四民)+被差別民の身分制度は廃され、四民平等の名の下で、華族(公家・大名)・士族(上級武士)・卒族(下級武士)の名称は残ったものの、其々有していた特権は剥奪されて、皇族以外は総て平民と同じ扱いとなった。倒幕の立役者たる下級武士が自らの特権を棄てたことから、「革命」と呼べないことは自明である。
文中、征韓論に言及しているが、維新後八年目(1875年)の論文である。韓国(大韓帝国)から学ぶべきものは何もない、として征韓論には否定的である。開化派(=親日派)金玉均(1851-1894年)ら留学生を受け容れたのは、七年後(1882年)のことである。高宗の勅令による来日だから、国費留学なわけだが、閔妃が放った刺客洪鐘宇(1850-1913年)によって暗殺された。国王(高宗)と王妃(閔妃)に王父(大院君)まで乗り出して、三つ巴の政争を繰り広げるのだから、傾国も当然だ。
現代韓国言論界で、福沢諭吉は征韓論者と誤解され、悪玉に仕立て上げられている。しかし、上記論文から解るとおり征韓論反対派である。福沢思想の根幹は【独立不羈】である。黒船襲来の幕末期、勤皇(朝廷派)も佐幕(幕府派)も挙って攘夷論で一致していた。然るに、明治維新後、何ゆゑ外敵(=西洋列強)の近代文明を積極的に摂取しようとしたのか? 西洋列強を追い払うにも、近代化前の我国の国力ではとても防ぎきれない、と悟ったからに他ならない。明治政府の欧米に倣った富国強兵策は、【独立不羈】への布石だったのだ。
米中双方に頭が上がらない菅現政権の貧国弱兵に通じる日和見政策とは、似て非なるを推して知るべし。
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