駐米代表、バイデン氏の就任式に出席
招待は台米断交後初
蔡総統が祝意
2021/01/21 13:16配信/フォーカス台湾(台湾・中央通訊社)日本語版
(台北、ワシントン中央社)米ワシントンで現地時間20日、ジョー・バイデン氏の第46代大統領就任式が開かれ、台湾から蕭美琴(しょうびきん)駐米代表(大使に相当)が出席した。駐米代表が米大統領就任式に主催団体の大統領就任合同委員会(JCCIC)から正式に招かれるのは1979年の断交以降で初めて。外交部(外務省)は21日、報道資料で、「共有する価値観に基づく台米の緊密な友好関係を示した」とコメントした。
蔡英文(さいえいぶん)総統は21日、ツイッターで、バイデン新大統領とハリス新副大統領に祝意を送った。蔡総統は総統府が同日発表した報道資料で、台米が既存の良好な状態を基礎とし、両国の人々の福祉や友好関係を増進するとともに、パートナー関係を引き続き深化していけることに期待を寄せた。
蕭代表は20日、ツイッターで、就任式が開かれる連邦議会議事堂前で撮影したビデオメッセージを公開。「民主主義は共通の言語であり、自由はわれわれの共通の目標。新政権と協力し、相互の価値と利益を増進していけることを期待している」と英語で述べた。米上院外交委員会は公式ツイッターでこの動画を紹介し、「直面する挑戦と地政学的現実を反映するため、バイデン政権が米台関係において進展を積み重ねていくよう促す」と意欲を示した。
(葉素萍、游凱翔、温貴香、江今葉/編集:名切千絵)
蔡英文(民進党)総統はもともとリベラル(自由主義)色が強く、決して保守政権ではない。ゆゑに、保守色の強かったトランプ(共和党)前大統領よりも、リベラルを党是とするバイデン(民主党)新米大統領のほうが、政治理念上は相性がいいはず。
保守(コンサバティブ)にも種類があるように、リベラルも大別して二つの潮流があるそうな。
1.個人の自由や多様性を尊重する一派
=旗印「権力からの自由」=小さな政府(国家介入否定派)
2.個人の自由には国家的支援が必要とする一派
=旗印「権力による自由」
=社会保障・福祉等の制度充実(国家介入推進派)
「自由」を旗印にしていても、そこは一定の制限があって【他人に危害が及ばない範囲に於いて】という枕詞が付くのが国際的な常識だ。我国の現行憲法第十三条でも、
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
とある。
米民主党、台湾民進党ともに政権(権力)の座にあるわけだから、「権力からの自由」(つまり「1」)などと公言するはずもあるまい。解り難いのが我国の政界で、政権与党の自民党自体が保守政党とは言い難いほどリベラル色に染まっていることだ。野党(立憲民主や共産党)が「1」の立場だろうことは想像に難くないが、自民党内にも新自由主義者どもがウヨウヨ居るのが理解に苦しむ。
ややこしいのは当たり前だ。自由主義や保守思想など、凡そ近代政治経済用語は殆ど外来語(概ね西洋起源)の訳語に過ぎない。支那・朝鮮を含む諸外国と我国とでは、思考過程がまるで異なる。決定的に違うのが「公(おほやけ)」の意識だろう。「公」と「私(わたくし)」に分けると、我国では伝統的に〝滅私奉公(私心を捨てて公のために尽くすこと)″を是としてきた。この四字熟語自体が戦時中の国策スローガンだったため、戦後は否定的に捉える向きが多い。しかし、古代に戻って、「シラス・ウシハク」思想を想い起してみるがいい。
もとより、神代の昔から「シラス・ウシハク」が思想として認識されていたかは不明である。なぜなら、『古事記』の「国譲り神話」の記述に依拠するというだけで、理論付けられたのは近代になってからに過ぎない。
・シラス(治らす)
・・・高天原(天の国/主;天照大神)の統治形態
全財産(人間を含む)を共有物とする考え方(=公共物)
・ウシハク(主履く)
・・・豊葦原瑞穂国(地の国/主;大国主神)の統治形態→天の国に国譲り
全財産(人間を含む)を主(あるじ)の所有物とする考え方(=私有物)
我国民がなべて高度な公衆道徳衛生観念を具備しているのも合点がゆく。その行動原理が「自主的(自発性)」ということに留意すべきだろう。法・規則(ルール・マナー)を遵守するという従順な側面も否定しないが、そうしたいからするまでのことだと思う。前回のリオ五輪で世界中の耳目を集めた日本人観客による〝ゴミ拾い(観客席の清掃)″。言うまでもなく、そんなルールや義務などない。想像だが、誰かが〝立つ鳥跡を濁さず″とばかりに身の回りを片付けていたのを目撃した他の観客も、良いことだと思って自発的に行ううちに集団的行動となったのではなかろうか。左派系人権団体に何某かの胡散臭さを感じるのは、自発的というより扇動乃至動員されただけの単なる個人の集合体(同床異夢集団)に過ぎないからではないのか。
「心を動かす」「心を掴む」「心を通わせる」「一心同体」「以心伝心(仏教語)」など、日本語独特の言い回しがあるが、唯物論者、無神論者には逆立ちしても理解できまい。因みに、「一衣帯水」「一帯一路」は漢語であって、日本語ではない。区別する意味で、カタカナ或いは拼音表記すべきではないか。ねえ、活字メディアさん。
《ご参考》
葉隠武士道の極意(「大和ごころ」の要諦)
「知」とは、他人の話をよく聞く事である。
「仁」とは、他人の欲する事をしてやるまでだ。
「勇」とは、歯を食いしばって我慢する事である。
【蛇足】
日本語と漢語では、屡々意味が異なる場合がある。
代表例が「勉強」。我国では〝奮励努力″とほぼ同義だが、彼国では〝(義務的に)渋々する″とか〝嫌々させられる″という真逆の意味に遣われるのだとか。価値観が正反対であることがよく分かるではありませんか。
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