今日は73回目の誕生日に当たる。子供の頃は確かに「特別な日」だったが、歳を重ねると嬉しくもなんともない。下手をすると忘れていることすらある。それでも、販売促進の下心からとは言え、商業系サイトからでも祝賀メールを貰えば、気分が悪かろうはずがない。
さて、前稿でバッハ『マタイ受難曲』をチラッと書いたところ、こんなコラム映像があった。
【ch桜・別館】絶望を救う音楽[R3/1/15]
出演:水島総・髙清水有子
水島総(みずしまさとる)チャンネル桜社長は、元来が映像作家(脚本・監督)なので、クラシック(古典音楽)も職業的視点から聴いているのかなぁ。関係ないけど、学部こそ違えど我が大学二学年後輩に当たる。高清水有子さんは元日テレアナウンサー。'80年代ぐらいまでよくテレビを視ていたので、お馴染みのアナだった。ニュース番組よりどちらかと言えばバラエティ系が多かったように思う。
クラシックに限らず音楽は、美術と違って「再現芸術」なので、名演であれ駄演であれ二度と同じ演奏はない。録音という〝音の缶詰″により、或る演奏が後世に遺されることがあっても、それはそれで特定の演奏に過ぎない。件のカール・リヒター(1926-1981)による『マタイ』も、何種かの録音がある。来日時も演奏しているが、録音の有無は不知。自分が推奨するのは最初の1958年録音盤。後年になるほどロマン的様相に堕し、宗教的感動を損ねている気がする。
1958年録音盤第一部
1958年録音盤第二部
音だけではアレなので、映像で観てみよう。
1971年録音盤第一曲
バッハ『マタイ受難曲』は彼メンデルスゾーンが1829年に蘇演したことで有名。昔から名盤も多い。自分は1958年リヒター盤を含め、戦前のメンゲルベルク盤(1939年)、ラミン盤(1942年)の三種所有している。なかでも聖トーマス教会で録音されたラミン盤が、音はモノラルで貧しいものの白眉。戦時下の緊張感と相俟って感極まりての落涙必至である。
宗教楽である以上、信者でなくとも娯楽として聴くことは憚られる。三時間もの〝音楽的束縛″はそれだけで苦痛になりうるが、だからこそ耐え忍んだ後の解放感が堪らないのだ。解るかなぁ、新自由主義者やサヨク連に。
流行歌が懐かしいのも、当時と同じ音源だからである。同じ歌手が歌っててもそれと違う音源では懐かしさは激減する。クラシックのコンサートも同じだ。二度と同じ演奏はないのだから、同時体験こそが貴重なのだ。ワグナー・バイロイト音楽祭戦後復活公演(1951年)で演奏されたフルトヴェングラー『第九』の録音は名盤の誉れ高いが、ナマで聴いた人はもう殆どこの世にあるまい。だから希少価値があるのである。
余事ながら、国歌『君が代』にも類稀なる〝名演″が存在する。所謂「玉音放送」で使用されたもの。つまり、戦中からのNHK所蔵録音盤だろうが、演奏者は伝わっていない。国歌を聴いてこれほど気高き心境にさせられるのは、後にも先にもこの演奏をおいてほかにない。戦後の「日本国」でなく、「大日本帝国」という世界最古の歴史を有する国家ならではの神がかった崇高な演奏である。アナウンサーに促されなくとも起立して直立不動の姿勢を採らざるを得なくなる。
玉音放送の君が代(1945年)
関連動画にあるカラヤン指揮ベルリンフィルの『君が代』と聴き比べてみるがいい。美演ではあるがちっとも感動しない。我らが他国国歌を聴いても感動することがないように、そもそも他国人と日本人では〝アイデンティティ(≒魂)″が異なっているのだ。もちろん、どちらが優れているかの問題ではない。西洋人との差異を述べたまでで他意はない。日本人として生まれたからには、国籍は別として他人種になりたくともなれないのが現実なのだ。無制限で完全無欠な「自由」など、この世に存在しない。因みにタイ語の「เสรีภาพ(自由)」の原意は、【ヒマ(することがない)】という意味になるのだとか。
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