12月24日は世界的にクリスマスイヴ(イエス・キリスト生誕前夜)に当たる。世界三大宗教と言われるキリスト教、イスラム教、仏教のうち、キリスト教とイスラム教はともにユダヤ教から派生したものである。ゆゑにキリスト教は西洋起源の宗教ではない。また、イスラム教もアラブ起源ではない。我国では聖徳太子の頃、在家(「出家」でないところが重要)仏教を受け容れたが、キリスト教(耶蘇教、切支丹伴天連教)もイスラム教(回教)も未だ人口の1%にも満たない布教率に留まっている。理由は詳らかではないが、〝和(やわらぎ)を以て貴し″とする我国にあって、排他的な宗教は土壌に合わないのかもしれない。
余談はさておき、西洋音楽の宗教楽と言えばキリスト教である。ただし、カトリックかプロテスタントかの宗派はある。クリスマスは、イエス・キリスト(ユダヤ人=ヘブライ人=イスラエル人)の生誕を祝う宗教行事である。したがい、宗派を問わずキリスト教徒の祝日だが、ユダヤ教徒やイスラム教徒にとっては〝通常日″に過ぎない。イスラム教なら未だ解るが、民族宗教とも言うべきユダヤ教の祝日でないのが解せない。それというのも、ユダヤ教にとって、キリスト教は「異端」と見做され、事実、新約聖書上でキリストはユダヤ民衆によって磔刑に処せられたことになっている。
肝腎のクリスマス古典音楽(クラシック)に入ろう。この分野では何と言ってもJ.S.バッハ『クリスマス・オラトリオ』とG.F.ヘンデル『メサイア(救世主)』が双璧であろう。どうでもいいけど、オラトリオはその昔、〝聖譚曲″という立派な訳語があった。『メサイア』も形式は聖譚曲である。交響曲(シンフォニー)や協奏曲(コンチェルト)は今でも訳語が用ゐられるのが通例だが、「ソナタ(奏鳴曲)」、「ディヴェルティメント(喜遊曲)」「カンタータ(交声曲)」「カプリッチオ(奇想曲)」「ラプソディー(狂詩曲)」などの訳語はあまり使用されないし、IME変換候補に載らない場合も多い。
逸脱ついでに、世界史と日本史(国史)は別の教科として学ぶので、時系列的な意味で世界と我国との〝同じ時代″の様子が判然としない。が、J.S.バッハ(1685-1750年)とG.F.ヘンデル(1685-1759年)は同い年だし、忠臣蔵の大石内蔵助(1659-1703年)ともほぼ同時代を過ごしてていたことになる。バッハは聖トマス教会のカントール(音楽監督=事実上ライプツィヒ市お抱え楽士)だったし、ヘンデルは英国王室のお抱え楽士であった。我国の朝廷(御公家衆)には雅楽があったものの、徳川幕府や赤穂藩に〝楽士″は居たのだろうか、
で、ここからがようやく本題。両曲のCDはともにK.リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管盤を所有している。バッハはともかく、ヘンデルのほうは独逸語歌詞なのでやや遜色がある。巷間『メサイア』の決定盤はビーチャム指揮ロイヤルフィル盤とされるが、自分の趣味には合わない。
■ヘンデル『メサイア』全曲(ドイツ語歌詞)-1965年録音
カール・リヒター指揮ミュンヘンバッハ管弦楽団&合唱団
ギュンドラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
エルンスト・ヘフリガー(テノール)
フランツ・クラス(バス)
独逸語版だからいうのでないが、全体を通じて渋くて重厚な響きが堪らない。有名なハレルヤコーラス(1:47:36)に続く第三部冒頭のソプラノアリア(1:51:54)の無色透明(純真無垢)な歌声が、天使を想起させて絶品。
20年ほど昔になるが、大町陽一郎指揮東京フィルの『メサイア』を五反田ららぽーとまで聴きに行ったことがある。その時も同様だが、ハレルヤコーラスに際して聴衆が全員起立する習わしになっている。どんな謂れがあるのか知らないが、聴衆と演奏者が一体となれてよろしい。演奏会場に足を運ばないと味わえない。この〝同時体験″こそ、永く記憶に残る一生の思い出に通じるものだ。
■バッハ『クリスマス・オラトリオ』全曲-1965年録音
カール・リヒター指揮ミュンヘンバッハ管弦楽団&合唱団
ギュンドラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(アルト)
フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)
フランツ・クラス(バス)
華やかな祝典曲とは言え、三時間近くは流石にへこたれる。第一部が終わった辺りで何時も降参だ。ゆゑに、CDはあるが、未だに全曲ぶっ通しで聴いたことがない。バッハ好きとしては珍しい。
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