明けましておめでとうございます。
毎年のことながら、無為徒食の年末年始でした。
その中で唯一、「歴史の真実」を知るうえで視聴に値する討論番組があった。
【討論】世界経済戦争としての大東亜戦争[桜R1/12/7]
CS放送局「日本文化チャンネル桜」は既存のNHKや民放局とは全く異なり、”保守メディア”を標榜して誕生した。当時、視聴環境を整えつつ、退職直後でヒマもあったので局ホームページ掲示板(BBS)に書き込んだりした縁で、ネトウヨ(?)仲間とともに、渋谷の放送局にも何度か足を運んだことがある。ただ、十年ほど前から日本文化というより政治色が一段と鮮明になり、楽しみにしていた番組が次々と打ち切られたため、興味を失くしてしまった。現在は全く視ていない。
この討論、終盤へ行くほど”真実”が微かに見えてくる。福井義高教授が”のらりくらり”と発言する場面があり、その後キーワードのようになって議論が展開する。これですよ、これ。諸外国には例をみない処世の極意。討論では、アメリカとは戦わず南(東南アジア)から西(インド)へ進出するという当時の作戦(シナリオ)が、なぜシナリオに反する真珠湾攻撃に至ったのか、という”謎”が解けないまま終わっている。
私見ながら、”謎”が解けないのは、【人間は神(かみ)仏(ほとけ)ではない】という当たり前の観点が抜け落ちているからだ。悪く言えば、論者全員が科学的合理主義に毒されて【人間は常に合理的な判断をするはず(失敗しない)】という「錯覚」に苦戦しているのである。我々は史料に基づく「歴史の事実」なら知っている。しかし、何を考えてあのような行動を採ったかは当人でない限り知る由はない。人間は「正直な反面、嘘も吐く」から、史料自体が必ずしも「真意(真実)」を伝えているとは限らない。なんとなれば、その当該人になりきって考えてみるしかない。つまり、結果を知ってしまった現代から眺めるのでなく、その時代に己が身をおいてみることである。もはや、科学的合理主義の領域を超えた第六感に頼らざるを得ない形而上の哲学に近い。
古代より我国には栄枯盛衰・盛者必衰の仏教的無常(無情ではない)観があり、それが死生観にも顕われる。意識するしないに関わらず、【人間は死から免れない】という諦観があるのだ。敗者に対し”明日は我が身”と思えばこそ「憐憫の情」が芽生える。”判官贔屓”もその一例でしかない。殺られるくらいなら自分から死んでやれ、という心境にもなろうというもの。
そうこう考えるうちに、福井教授が仰る「のらりくらり」の意味が何となく分かった気になる。それは【身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ】の俚諺にある「捨身」になること。テレサ・テンじゃないけれど『時の流れに身を任せ』るという意味もあるが、絶体絶命の危機脱出策としてのほう。もう一つは「受身」。これは、一般的な「受動態」というより、柔道用語のそれ。投げられたときにケガをしないよう我身を護る術のことである。つまり、苦境にある場合は、死んだ気でコトに当たり、武運拙く敗れた場合は「受身」を採るということ。
自分は「進化論」を信じない。否、むしろ人間退(頽?)化論者でさえある。結果を知ってる現代人が、歴史を断罪するのは傲慢である。今日の出来事も明日には過去となる。その積み重ねが「歴史」である。「後生畏る可し」の言葉もあるように、結果(歴史)を知る未来人から「過去」となった今の現代人(おのれを含む)が断罪されたのでは堪ったものではない。今日を生きる我々は、未来の世界を知り得ないのだから。
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