【書評】元韓国人が解説。
あの国が国家間の約束を簡単に破る理由
12/9(月) 20:01配信/まぐまぐニュース
近代法治国家において裁判は、「情」が絡む判断は排除され、証拠に基づいた客観的判断が下されるものですが、隣国では少々事情が違うようです。今回の無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』で編集長の柴田忠男さんが紹介しているのは、韓国が自分たちの都合のいいように歴史を書き換えてきた、その根本部分となる彼の国の司法について綴られた書籍。「元」韓国人評論家がわかりやすく解説する一冊です。
偏屈BOOK案内:呉 善花『韓国を蝕む儒教の怨念 反日は永久に終わらない』
『韓国を蝕む儒教の怨念 反日は永久に終わらない』
呉善花 著/小学館
いまの韓国は李朝の「法よりも情が優先する」状況下にある。通常は国法をもって判定していても、それでは情が入る余地がなく、本当の正邪の判定とはならないとみなされたときに、「情理」からの判断が下される。酒に酔っての犯行となれば、「情理」の判断を以て必ず減刑されるし、単純暴力では前科の有無を問わず罰金・略式起訴で、裁判までいかせないのが司法界の慣例だという。
そのため、韓国には前科40犯、50犯がざらにいる(朝鮮日報2012/9/17)。韓国の「情理」とは「大多数の韓国人が今このときに常識として抱いている正しさの感覚」というよりほかにないものらしい。民族的な主観による、「この辺が正しい」という(暗黙の、いわずもがなの)国民的合意といいえばいい。この合意が、しばしば「法に優先する」のが韓国だという。不思議な国だなあ。
日本はもとより、近代法治国家の裁判では、審議を進める具体的なルールがあり、それに則っていくことで「情理」や「情実」が絡む判断は規制・排除され、事実(証拠)に基づいた峻厳かつ客観的な判断が下されていく構造になっている。ところが、韓国では必ずしもそうとはならず、司法判断はそのときどきの「このへんが正しい」という、国民の思いに強くひきずられるというのだ。
「そのときどき」というのは、「あのときには間違っていないとされていたが、今このときの常識からすれば間違っている」という国民の思いが正義である、ということだ。この正義に基づいて行われたのが「慰安婦合意の破棄」や「強制徴用者への賠償判決」である。つまり「国民的合意」とみなされさえすれば、他国との間で決まった約束事を勝手に破ったり、あとでルールを自分たちに都合よく変更したりすることなど、まったく意に介さない。不思議な国だなあ。
文在寅政権は、軍事政権時代の韓国史を全否定し「あのときは間違っていないとされていたが、今の常識からすれば間違っている」と主張する。「あのときの事情」を正確に捉えることを放棄し、単純に現在の価値感で過去を断罪するのは近代的観点では戒められている。「それに対して韓国では、『現在の価値観に立って過去の歴史を全否定する』ことが盛んに行われているのです」
「韓国ではこれを『歴史を真っすぐに立てる(韓国語で「ヨクサ・パロ・セウギ)』と表現しています。日本統治時代の歴史を全否定することも、韓国人が『歴史を真っすぐに立てる』ことの重要な要件なのです。中華帝国や朝鮮半島諸国では、王朝や政権が代わるたびに、自分たちの都合のいいように『歴史を書き換える』ことをしてきた歴史があるわけです」。不思議な国だなあ。
過去のよくないことは全て「日本の植民地主義」のせいにすることで、韓国の責任が和らげられ、殆ど回避されていく。「ようするに、韓国の『米軍慰安婦』『韓国軍慰安婦」『ベトナムでの虐殺』と日本の『従軍慰安婦』問題は一つのものなのです。いずれも『日帝の植民地主義』がもたらした問題とされるのです」。世界に広がる韓国の反日プロパガンダ。恐ろしい国だなあ。
編集長/柴田忠男
これは、「書評」だから著者呉善花さん自身が書いた記事ではない。韓国関連の新聞書籍類は政治・経済・軍事絡みの内容が多く、とかくその種の専門用語が多用されて庶民には解り難い。そこへゆくと呉善花さんの筆致は、庶民レベルの視点に立った、解り易い解説が好ましい。
結論から言えば、「儒教の怨念」と言うことになるが、我国も儒教の影響は少なからずある。ただし、儒教を鵜呑みにして丸ごと模倣した彼国と違い、専ら「儒学」という学問の部分を受け容れたに過ぎず、肌に合わない宗教的側面や風俗習慣などは摂取の対象としなかった。この辺りの違いが、モノの観方・考え方への影響度合いが大きく異なった原因なのかも知れない。
現代法治国家に於いて今日の価値観で過去を裁くような「事後法」は、禁じ手(反則)とされるのが国際常識なのに、彼国には通用しないようだ。文化の違いは、言葉遣いに顕われる。
敬語・尊敬語の遣い分けがそれ。家族(身内)同士で敬語・尊敬語を殆ど遣わなくなったのが我国とすれば、朝鮮(韓国)語では、話し相手に関係なく、、主語が家族であっても目上(ex.親)であれば尊敬語を遣う。例えば、会社の上司に対し、『我が父上は病に臥せってお出であそばされます』などという珍妙な会話が交わされるというわけ。昔は我国でも。「父上、兄上」と敬語で呼び、両親・兄姉らに対しては尊敬語が遣われていたが、戦後急速に廃れてしまった。
誰か忘れたものの或る人曰く、『儒教は、倫理道徳観念の欠如した支那・朝鮮人民を統治するため、秋の支配者によって政治利用された。対する我国では、既に倫理道徳的下地を保っていたため、儒学(倫理道徳の教科書的位置づけ)として珍重された。』のだとか。また、津田左右吉だったと思うけど、【我国には、外来文化を無批判にそっくり模倣するのでなく、吟味を加えて取捨選択する智慧が備わっていた】とする趣旨の文化的考察を遺している。しかし、今やその伝統も怪しくなりつつある気がするが、果たして杞憂だろうか。
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