チェンマイに来てまで韓国ネタでアレですが・・・。
「反韓」ではなく「嫌韓」なのはなぜ?
11/28(木) 17:40配信 ニューズウィーク日本語版
最近、日本では嫌韓ムードがこれまでになく高まっている......らしい。10月に発行された本誌でも嫌韓を深く探る特集が掲載された。私の東京におけるホームタウンである練馬区では今年5月に嫌韓デモがあり、東京都初のヘイトスピーチ認定案件になったそうだ。「らしい」とか「そうだ」と書いたのは、自分でそうした場面を目撃したわけではなく、それほど実感が湧かないからだ。
確かに書店に行けば韓国の否定的な部分だけを取り上げ、批判する雑誌や書籍が並んでいるのが目に入る。だが2015年から3年間ソウルで暮らし2018年春に東京に戻ってきた私が驚いたのは、むしろ日本社会における韓国ポップカルチャーの受容がさらに広がっていたことのほうだった。
15年前から通う近所のジムでは、ダンスのクラスでBTS(防弾少年団)などKポップアーティストの曲をしょっちゅう取り上げるようになっていた。インストラクターはニコニコして歌詞の意味を聞いてくるし、一緒に運動するジム仲間は汗を流した後、「チョンマル ピゴナダ(ホント疲れるよね)」と韓国語で声を掛けてくれる。ドラマを見て耳で覚えたそうだが、発音もタイミングも、かなり自然だ。長女の通う高校では、Kポップグループの歌詞を見ながら韓国語を勉強する同級生も多く、連れ立ってBTSのコンサートに行ったりしている。かつての韓流ブームに比べても、対象世代を広げ、さらに深く定着しているようだ。
こうした状況は私が東京で留学生活を始めた1990年代後半と比較すると隔世の感がある。当時アパートを探そうと不動産屋に行き、気に入った部屋に申し込んでも、次から次へと断られた。ほぼ40件当たって、部屋を見せてくれたところはたったの3件。不動産屋に理由を聞くと「大家さんが嫌がるんですよね......。韓国人や中国人に部屋を貸すと家族やらなにやら増えて大勢で住むかもしれないから」。ずいぶん差別的なことを、はっきり言うのだなと驚いた。
今でも差別は残っているだろうが、20年前と比較すれば、日本社会はずいぶんと多様性を認めるようになったと思う。区役所でも多様な外国語があちこちから聞こえ、職員たちが懸命に対応している。これは東京五輪を控えていることや、観光産業や労働力市場で、日本社会を外に開くことの必要性が広く認識されてきたせいなのかもしれない。韓国文化の受容の広がりも、こうしたなかで起きていることなのだろう。
ただ、どうしても気になるのは「嫌韓」という言葉だ。「反韓」という言葉もなくはないが、「嫌韓」のほうがはるかに定着している。アメリカや中国に「嫌」より「反米」「反中」を主に使うのとは対照的だ。「反」なら良いということではもちろんないが、同じ否定的な言葉でも、「嫌い」には情緒的に全否定するニュアンスがある。知人に「あなたの考え方には反対だ」と言われるよりも、「あなたのことは嫌いだ」と告げられるほうがショックだろう。
世界中どこでも隣国関係は複雑だ。歴史問題などで関係がぎくしゃくするなか、韓国政府の政策や韓国メディアの報道に反発する人が日本国内で増えることは理解できる。ただ、そういう人たちの中にも一度はまった韓国ドラマは見続けたり、韓国料理は好きだったりする場合もあるだろう。
であれば、時代遅れの差別意識から韓国を下に見て全否定するのを「嫌韓」、部分的に反対するのは「反韓」と分けて考えるのもありではないか。こうした議論が、お互いに「全否定はやめよう」という機運につながるかもしれない。もちろん日本に住む韓国人としては、「嫌」も「反」も乗り越えて両国が仲良くできるのが望ましいけれど。
寄稿;李 娜兀(リ・ナオル)
コメント総数/398
イ.それは君たちのやり方が姑息でゲスいからだと思うよ。どうして君らはこう言う被害者意識ばかりで母国の反日ヘイトを煽る行為を止めるよう呼びかけないのか不思議でしょうがない。君らが日本をヘイトするのはいいけど、その逆はダメとか君らの二重基準は問題だと思う。嫌韓じゃなく単に君らの不都合な真実を報道しているだけなのにヘイト扱いして発信しにくくするのは言論の自由の封殺で問題だからやめた方がいいと思う。これを端緒にもっと率直に君らの真実を表現する環境が整ってもらいたいと思う。
ロ.なぜか?
相手を理解しようとして、知れば知るほどイヤになる国だからですよ。
憶見や偏見ではありません。
ハ.国際法守れない、レーダー照射も解決されてない状況では、日本とすれば相手に出来ない。
表現方法は別として、自分も各コメントに同意。「嫌韓」とは言い得て妙である。要するに、関心ないのにしつこく付きまとわないで欲しい、という心境ですね。【身から出た錆】という言葉があるが、なぜ嫌われるのか、との根本原因を韓国民の誰も気づかないのが不思議でならない。
我々なら、嫌われないため或いは好かれるためにはどうすればよいかを主体的に考えるが、彼国民はそうではないらしい。不都合な事案の全責任を他者(他国)に転嫁する思考を改めない限り、善隣友好関係など永遠に無理でしょう。「NoJapan」を叫べば、畏れ入って日本が平伏すとでも思っているのだろうか。子供にも分かる道理をなぜ弁えられない。いや、これが悦服統治と屈服統治の歴史的差異なのかもしれない。
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