帰国して一箇月超、旅行中の記事を仕上げるどころか、更新そのものを怠けてしまった。生来のぐうたら癖から急に筆が重くなってしまった。「ブログ」というもの、所詮は独り言に過ぎない。有名人でもない私奴の独り言など、誰の興味があろう。勢い個人的な出来事より万人が好む記事が中心になる。即ち、映画・TV番組・スポーツ等がそれ。振り返ると、毎度お馴染み記事ばかり。しかも、昔話にしかならない。仕方あるまい、時代に取り残された老い耄れなのだから。
とはいえ、筆が執れるうちは頑固にこれを貫き通しますよ。ということで、毎度映画・TVの範疇ながら、趣向を変えてTV時代劇スター(役者)列伝シリーズの始まりはじまり。第1回の本稿は「中村梅之助(四代目;1930-2016)」の巻」であります。
TV時代劇スターといえば、「中村竹弥」のほうが先魁かも知れないが、いま『遠山の金さん』に凝っている関係で、この人を先に採り上げる。若い頃は、べらんめえ口調と刺青を売り物にしたヤクザっぽい内容が嫌いだった。江戸北町奉行遠山左衛門少尉景元は南町奉行大岡越前守忠相と並ぶ実在した歴史上の人物であるが、TV・映画化される時点でフィクションを織り込んだ作り話に過ぎない。金さん役者といえば、映画は片岡千恵蔵、TVなら断然この中村梅之助だろう。
さいわい、梅之助主演のTV時代劇は粗方保有している。
1.遠山の金さん捕物帳('70;NET)
2.伝七捕物帳('73;日テレ)
3.達磨大助事件帳('77;テレ朝)
4.伝七捕物帳('79;テレ朝)
5.そば屋梅吉捕物帳('79;東京12)
このうち、3を除く全てに北町奉行としての「遠山金四郎」が出て来る。1は本人の変装?だから当たり前として、ほかは梅之助が二役を演じている。つまり、どれも『遠山の金さん』から派生した作品ということ。3と5を除けば戦前から伝わる時代物だが、いずれも'70代の作だけに戦後的価値観(生命至上主義・科学的合理主義・算盤尽くの処世観など)が横溢しているのは否めない。然りとて当時流行りの西部劇風時代劇とも異なる。なんとなれば、伝統的(義理と人情のしがらみ)要素が強調されているからだ。しかも後年になるほど度が増す。
ところが飽くまで個人的な感想ながら、娯楽としての完成度は逆に経年劣化していく感じ。4より2のオリジナル版が面白いし、2より1のほうがよほどおのれの好みに適っている。TV局こそ違え、前進座のスタッフ/キャストが共通するにも拘わらず、これはいったいどういうことなのか。察するに技術的には稚拙なれどその分謙虚かつ真摯な姿勢で作られていたのが初期とすれば、技術の進歩に反比例して後作になるほど観賞に堪えなくなる。まさか人気を得て慢心したわけでもあるまいが、【視てもらう】という謙虚さより視聴率を最優先するTV業界の商業的野心【視せてやる】が見え見えで、説教臭い台詞回しやこれ見よがしのお笑い・お涙頂戴場面が鼻につく。したがって、これが嫌味にさえ感じてしまう。
もう一つ他作と一線を画するのは、1・2に限ると稀に善良乃至純情可憐な役どころで知られる有名俳優・女優を悪人・悪女、または表裏のある役柄を演じさせていること。逆に悪役で成らした役者を善男善女に仕立てる遣り方は異彩を放っている。例えば二代目NHK三人娘の片割れ磯村みどりが表裏のある毒婦を演じているが、贔屓の女優だけに、役柄とはいえ裏切られたようで憎さ百倍に裏返り、まことに恐ろしかった。
神仏鬼悪魔でもない限り、人間誰しもこうした二面性を保っているものだが、西洋流二者択一式に善悪がはっきりしたデジタル思考的ドラマが多すぎる。本邦は多様性を許容するアナログ思考の國である。1・2が人気を博して長期シリーズとなった理由の一つは、大袈裟に言えば、国民性に合致して視聴者の心を掴んだからに相違なかろう。奇しくも、金さんと伝七の啖呵に《貧富や身分の上下じゃねエ、人の心だぜ》が頻出する。
どうでもいいけど梅之助が一時主宰していた「前進座」は、戦前からある歌舞伎界の一座だが、戦後多くの座員が日本共産党に入党するなど、左翼系と目される劇団である。戦時中('41)、前進座員総出演で溝口健二監督真山青果原作『元禄忠臣蔵』(松竹)が作られてあり、当該梅之助(当時11歳)も大石吉之助役で出ている。原作者も生前「オレは共産党員だ」と吹聴していたとか。真偽のほどは定かでないが、事実とすれば陸・海軍省推奨国策映画が、左翼系人士によって作られたことになり、何とも皮肉なことだ。なお、知らなかったが、同映画冨森助右衛門役中村翫右衛門は梅之助の父親だとか。1・2でも親子共演している。子は中村梅雀。
リアルタイムで視たのは1のみだと思っていたら、2の橋幸夫が歌う主題歌『江戸の花』も聴き憶えがある。映画・TVドラマの想い出に、音楽の効用も逸するわけにはいくまい。
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