先月辺りからデスクトップPC(EPSON MR7300M Win7)が突然ダウンするようになった。モバイル用PC(Panasonic CF-LX3 Win7)は今のところ無事なので、修復不能となれば代用も可能だけれど、処理能力が桁外れに違うから日常作業はデスクトップPCを使っている。
症状は時と場合によって多少異なるが、概ね冷却ファンが唸りだして画面が暗転しブルースクリーン状態になる。英語なのでどうなったのか判然としないが、深刻な障害が生じていることだけは確かなようだ。対処法も判らないので放置していたら、何事もなかったように普段どおり再起動することもあれば、ディスクチェックを延々と繰り返す場合もある。シロウト療法で、エラーコードを調べてあれこれ弄り回すから益々調子が可笑しくなる。
ここ数日は小康状態(?)を保っており、騙し騙し使っているけど、不安で一杯。「ブルースクリーン」って心臓に悪いですね。
思い起こせば2015年6月、知らぬ間にWindows10へ自動アップグレードされたのがケチの付き始め。すぐにWin7に戻したものの、一旦アップグレードした環境を経ると全てが元通りになるわけではないらしい。事実、動作しなくなったアプリも幾つかある。殆ど使ってないアプリなので削除して済ませただけ。
元々のOS(Win7)を最初からインストールしなおせばよいのだが、そんな面倒な作業は御免だ。そのせいか知らないが、昨年12月からWindousUpdateが出来なくなってしまった。PanaのPCも同様である。←マイクロソフトのサイトに「対処法」が載っていたので、そのとおりにやったら、どちらのPCともちゃんと自動更新できるようになった。気のせいか、今ではサクサク動いている。勝手な想像だが、アップデートできないせいで、PC自体が最新の状態でなかったための不具合だったのかも。
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前稿で「昔のテレビ番組」を話題にしたが、その続きです。
何とも隔世の感を禁じ得ない。「昔」と言っても、おのれが生きてきた僅か半世紀(50年)ほど前なのに、「時代」はこれほど激しく変わるものだろうか。世相を表面だけ捉えて言うのではない。余人には窺い知れぬ【心の有り様】のことである。特に、自分の知らない時代(戦前・戦中)の邦画や記録フィルムを観るにつけ、その思いはいっそう強くなる。大袈裟に言えば、終戦(昭和20年)を分水嶺に、国民全体の価値観が180度変わってしまったかのように映る。
否、よくよく考えてみればそうではあるまい。終戦直後は戦前の教育を受けた人々(いわゆる「教育勅語世代」)が、未だ各界を主導していたのだから、如何に時代が変わろうと正反対の価値観を短兵急に受容できる道理がない。元凶はアプレ(après-guerre=戦後派;ここでは「教育勅語を知らない世代」の意)にあると観る。自分もアプレの片割れだが、我らの先輩たちが初めて成人に達したのは昭和34年に当たる。その後、教育勅語世代が徐々に現役を退き、やがてアプレが各界の大多数を占めるようになるのが昭和から平成に御世代わりするころだろうか。今となっては、映画界・テレビ界とも教育勅語世代は皆無。アプレばかりが牛耳る作風に馴染めないのが当たり前。おのれを戦後生まれのアヴァンゲール(avant-guerre;戦前派)と自認してますから。
例えば『鬼平犯科帳』。鬼平役が四代に渡って交代しているが、おのれの好みに合わせると松本幸四郎(初代;昭和44年)>丹波哲郎(第二代;昭和50年)>萬屋錦之介(第三代;昭和55年)>中村吉右衛門(第四代;昭和64年)の順になる。巷間評価の高い吉右衛門版は採らない。何処がいいのかさっぱり分からない。本筋たる捕物より、趣味嗜好に偏ったバラエティ仕立ての作風が気に入らない。因みに四人の主演者中、吉右衛門だけが教育勅語を知らない「アプレ俳優」ということになる。
【心の有り様】などと大仰に持出したものの、自分自身はどうなのか。う~む、子供時分とは明らかに違っているな。神社仏閣の前で御辞儀することはないし、年賀状も30年以上書いていない。要するに経済的な豊かさや快適な日常生活と引き替えに、本来あるべき健全な心(精神)を忘失してしまったのだ。しかし、そうと気付いたところで、もはや手遅れ。一旦、自由気儘で快適な日常を経験すると、もう過去へは戻れなくなる。戻したいと思っても、身体がついて行かないのが実情である。あぁ、情けなや。
【追記】
昔の映画・TVを見ていると、思わぬ発見がある。今や死語(?)同然となった語や当時の流行語も飛び出す。死語(?)の代表例は「便所」。古くは「厠(かわや)」「雪隠(せっちん)」「御不浄(女性が用ゐた)」などとも称していた。何時の頃からか女性を中心に「おトイレ」という言い回しが浸透し、今日では老若男女を問わず「トイレ」に統一された感がある。個人的な記憶乍ら、おそらく昭和40年代半ば頃と察せられる。「失敬」や「無礼」も殆ど使われなくなり、「失礼」の一言で片付けることが多くなった。
流行語は懐かしさを呼び覚ますが、時代が離れた今聴くと、わざとらしい嫌味さえ伴って聞こえてしまう。当時を知らない若者が聞けば、意味不明のギャグとしか映るまい。昔は歴史的仮名遣いで学んだ戦前派と現代仮名遣いの戦後派がごちゃ混ぜになっていたせいか、学校以外の日常で、屡々難しい漢字や難解な言い回しが結構あった。その都度、字引片手に必死で覚えようとしたものだが、現代はどうだろう。
日本語は世界で最も多様で複雑な言語といわれる。それを我が先人はいとも容易く使いこなしていたことになる。一方で、意思疎通の手段としての言語は、異言語に接する毎に簡素化されて行くのだそうな。昔とは比較にならないほど外国との距離が近くなった今日、我が「国語」とて例外ではない。難解な用語は淘汰され、簡単な言い回しだけが残るのは当然の成り行きかもしれない。難読漢字が書物から駆逐され、仮名中心に変わりつつある。これらは日本国政府の「愚民化政策」の陰謀ではないかと訝っていたが、どうやら的外れだったようだ。自身、パソコンのおかげで文字を書く機会が殆ど無いのが実情で、画数の多い漢字ほど忘れて行くのだから。
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