今日は、午後から小学校時代の同級生、夕方には「救う会大分」の知人に会ってきました。
まずは同級生とのこと。二年前(平成27年)の2月と5月に当地を訪問した際、世話役を引き受けてくれた旧友に電話したところ、あいにく検査入院中だった。彼によると、その時約半世紀ぶりに再会した約十名のうち、既に二人が亡くなったという。当方の必要に応じてしか連絡せず、相手の都合など考えないからいつもチグハグになる。最も会いたかった悪友が他界したとあって、他の連中を手当たり次第に電話しまくったが、全員アウト。仕方なく住まいを知ってる級友宅に押しかけた。医者の息子で大言壮語癖が難点だが、気立てはいいヤツだ。
右の画像は、昭和35年頃(もう卒業していた)の東大分小学校航空写真とこれを元に彼が作ってくれた絵図面。ずいぶん田舎だったんですね。大分市内といえども自然の山河と田畑に囲まれた散村といった風情。豊後街道(国道197号)は未舗装の泥んこ道のうえ、車の往来もまばらだった。それが、おそらく昭和40年代に入ってからだろう、臨海工業地帯建設に伴って一大住宅街へと変貌を遂げていった。今や山が崩され田畑も消えてコンクリートジャングルと化した景観しか知らない現代在校児童には信じられまい。
近くの喫茶店で約二時間ほど昔話をしたのだけれど、記憶は案外アテにならない。自分に都合の良いようにしか憶えていないので、彼の記憶と食い違う点が多々あった。尤も、当方は転校生ゆゑに小四(昭和32年)以降しか知らないが、入学時からこの小学校に居た彼なればこそ、更に昔の記憶も有するだけに、それとゴッチャになって憶えている可能性もある。例えば絵図面にある「引き揚げ者住宅」「朝鮮人部落」「海軍大分航空隊地下燃料タンク跡」など、建物の存在は憶えているものの、由緒まで知らなかったしそんな興味もなかったのが実情である。逆に「昭和32年」ではなく「昭和35年頃」の航空写真。また「地下燃料タンク」ではなく「弾薬庫」が正しい(『予科練資料館』にて確認済)。
続いて「救う会大分」のお二方との会食。現役引退後、某インターネット掲示板で巡り会った方たちだから、こちらは比較的新しい知人ということになる。今はともに大分市内に在住しておられるものの、元を質せば中津(60歳代)と別府(40歳代)の人だとか。当然、大分市の昔のことなら私奴のほうがずっと詳しい。例えば西大分に「かんたん(甘鄙)」という地名が残っているが、その昔別府湾を甘鄙湾と称したことに由来することまで御存知なかった。しかし、会の性格上、当地の昔話にはならず、拉致問題に絡んだ時局・政局の話になるのはやむを得まい。お一方は同世代ながら、さすがは福沢諭吉(慶応大学創設者)の地元だけあって、早大の当方とは結論は同じでもプロセスが微妙に異なっている。もうお一方は世代間のギャップというか、着眼点や発想がまるで違うなぁ。アナログ世代の当方に対し、良くも悪くもデジタル世代という感じ。
そんなところです。
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