月一更新みたいになって何だかカッコ悪い。このこととは無関係なるも、前稿で【日本人は泣くのがお好き(よく泣きたがる)】と書いた。偶々、某掲示板で見掛けた一言辞に過ぎず、こうした性向の良し悪しを論じたものでもない。したがって、当説(?)の是非に拘泥するつもりはないが、【価値観の倒錯】を目の当たりにしたようで妙な興味をそそられた。
女子供ならいざ知らず、人前で泣くのは【男の恥】とされた戦前(特に戦時中)に比べ、当世TVドラマ・映画の男優連がよく泣く。時代劇・現代劇を問わずシリアスなものほど、かつ今日に近づくにつれて酷くなる。まぁ、戦前を生きてきたわけではないので単純に当時の映画を観ての個人的な印象に過ぎないのだが。現に【男泣き】という語があるくらいだから、人知れず泣きたいときもあろう。これまた勝手な推量ながら、それを満足させてきたのが『浪花節的(観る側を泣かせる)芝居』ではなかったろうか。それにしても、人目を憚らず号泣する『男優泣きまくり芝居』を見せられた日にゃ、観る側は白けてしまう。
『浪花節的(泣かせる)芝居』といっても、当方の勝手な造語だから読者には理解し難いかも知れない。簡単に説明すると、共感や感動を呼び覚まして観る側の涙を誘う芝居を指す。講談や浪花節に倣った伝統的映画(というより【活動写真】)がこれに当たる。感情の昂揚に比例して誰しも自然に涙が伴うものだが、ここで言う涙は共感や感動と連動した涙ゆゑに、劇中人物が逆境に耐えかねて都度泣き崩れたのではサマにならない。否、むしろ決して役者が泣いてはならぬ。艱難辛苦に遭いながら、なお懸命に涙を堪えているからこそ第三者(観る側)の「斯くありたい」と想う心情と重なり合ってはじめて涙腺が刺戟せられるのである。
音楽に喩えるならモーツアルト《クラリネット協奏曲K622》だ。全曲が平安で幸福感溢れる【天上極楽の音楽】になっている。けれども、何故か涙を禁じ得ない。死が目前に迫る病床で書かれた曲と知ればなおさらだ。作曲者の魂は、煩悩に満ちた現世への未練を断ち切って既に「成仏(死者)」の域に達していた、ということ。
格好の判断材料に『忠臣蔵(赤穂浪士)』がある。所謂【赤穂事件】を題材とする『仮名手本忠臣蔵』(1748年初演)という創作歌舞伎・文楽から派生した【芝居】である。映画版は講談や浪曲(浪花節)等を通じて広まった有名な逸話を挿入したものが多い。所有する作品は、下記のとおり
1.『元禄忠臣蔵 前篇/後篇』(松竹・昭和16・17年)
真山青果原作、溝口健二演出、深井史郎音楽、河原崎長十郎主演
2.『赤穂浪士 天の巻/地の巻』(東映・昭和31年)
大佛次郎原作、松田定次監督、深井史郎音楽、市川右太衛門主演
3.『忠臣蔵』(大映・昭和33年)
八尋不二ほか脚本、渡辺邦男監督、斎藤一郎音楽、長谷川一夫主演
4.『忠臣蔵 桜花の巻/菊花の巻』(東映・昭和34年)
比佐芳武脚本、松田定次監督、深井史郎音楽、片岡千恵蔵主演
5.『赤穂浪士』(東映・昭和36年)
大佛次郎原作、松田定次監督、富永三郎音楽、片岡千恵蔵主演
6.『忠臣蔵 花の巻/雪の巻』(東宝・昭和37年)
八住利雄脚本、稲垣浩監督、伊福部昭音楽、松本幸四郎主演
註)松本幸四郎(八代目)と市川染五郎(現;松本幸四郎)、
中村萬之助(現;中村吉右衛門)兄弟が親子共演している。
7.『赤穂城断絶』(東映・昭和53年)
高田宏治原作、深作欣二監督、津島利章音楽、萬屋錦之介主演
8.『忠臣蔵~決断の時』(テレビ東京・平成15年)
古田求脚本、杉村六郎ほか演出、和田薫音楽、中村吉右衛門主演
1.2.は劇中で男が泣くシーンは皆無、要するに観る側を泣かせる典型的な【浪花節的芝居】と言える。3.は浅野家遺臣らが時折ススリ泣くし泣かせる場面も多い折衷型。4以降8に近づくほど男優の号泣場面が激増する反面、観る側(つまり私奴)は逆に白けきって一粒の涙さえ出ない。
話変わって前回採り上げた『大岡越前』(TBS・昭和45年)、初回放送時は『水戸黄門』(TBS・昭和44年)と同枠にて交互に放映されていたが、亡父の『水戸黄門』ファンに対し、自分はどちらかといえば『大岡越前』を愉しみにしていた(と記憶する)。
同種の修身教科書的作風とは言え、子供の観賞を意識してか単純明快な物語構成かつ砕けた喜劇調の多い『水戸黄門』より、『大岡越前』のほうがやや高尚で晦渋な伝統的時代劇(つまり【浪花節的芝居】)の印象を保っていたからだ。まだ第一部第8回放送分までしか視てないが、先入観に反して実際は違っていた。やはり戦後の時代劇でしかない。講談や浪曲で有名な『大岡政談』の古典に依拠したというより、当時ありがちな家族ぐるみで愉しむホームドラマ調に仕立てられている。勢い物語の展開も大岡忠相(加藤剛)と雪絵(宇都宮雅代)、榊原伊織(竹脇無我)と千春(土田早苗)らの縁談話(つまり「私生活」)がメインであり、それに「公務」たる捕物がオマケ的に付け足されただけの代物。【浪花節的芝居】の硬派な要素など何処にも在りはしない。
優劣を言いたい訳ではない、良くも悪くも【時代が変わった】のだ。私見ながら、戦前を知る【教育勅語世代】が現場を退き、制作スタッフ全体を戦後世代のみで占めるに至って、制作目的も「(視聴者に)感じてもらう」より視聴率至上主義の「見せる・見てもらう」が主流になったためではあるまいか。もちろん、全てを制作者側のせいには出来ない。なぜなら、視る側とて皆が一様であるはずがなかろうから。
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