「用心棒シリーズ」(NET系;昭和42-44年)とほぼ同時期のTV時代劇に『三匹の侍』(フジ系;昭和38-45年)がある。この『三匹の侍』は、初めて剣戟シーンに効果音を用ゐた革新的時代劇で、今日ではテレビ・映画を問わず剣戟効果音が標準規格(?)となってしまったのだから凄い。現に後発の「用心棒シリーズ」でも、この効果音が採用されている。
リアルタイムで視ていたのは『三匹の侍』のほうだが、半世紀(50年)経た今視ると何故か安っぽく感じる。ビデオ撮りのせいなのか、如何にもお手軽なTVドラマといった風情にしか見えない。そこへ行くと「用心棒シリーズ」は、モノクロスタンダード画面ながら、フィルム撮影と映画会社(東映)の参画とが相俟って、本格的な劇場映画でも観ているかのよう。
そうした体裁はともかく、浪人が主人公かつ権力に媚びないといった共通点はあるものの、内容的には対極にあるといっても過言ではあるまい。即ち、『三匹-』はどこまでも三人の浪人が主人公であり、彼らを中心に物語が展開する。これに対し「用心棒-」の場合、物語(勤皇佐幕の政争)の本筋に無関係な市井の人(各話ゲスト;婦女子が多い)がひょんなことから抗争の渦中に巻き込まれて行く。それを見かねたレギュラー陣が守護に走る風に描かれる。つまり、或る放送回のみ切り取って視ると、ゲスト出演者のほうがあたかも主人公であるかのように錯覚してしまう。レギュラー陣(全篇を通しての主人公)と言えども、むしろ助演に近い扱いに過ぎない。
前稿で、「用心棒-」を視ていると“緊張する”と書いたが、『三匹-』では緊張感など伴わない。この違いは何だろう? 改めて両者を見比べてようやく謎が解けた。要するに、【臨場感】が異なるからに他ならない。原理的にはスタジオ撮影(『三匹-』)とロケ撮影(「用心棒-」)の差ということ。ほぼ同時期に放送された具体例を示しておこう。
・『三匹の侍』第5シリーズ第19話冬の旅(昭和43年2月8日放送)
・『待っていた用心棒』第8話雪あかり(昭和43年3月18日放送)
第9話関所越え(昭和43年3月25日放送)
共通点は何れも[雪中劇]であること。しかし、前者の撮影はスタジオのセットで行われている。このため、降る雪も積雪も模造品かつ暖房の効いたスタジオ(屋内)とあって、野外シーンにも拘わらず出演者の吐く息が白くならない。これではせっかくの剣戟効果音も台無しだ。対する後者は、実際に雪が降り積もる現場(ロケ地不明)へ出かけて撮影しているため、雪はもちろんホンモノ、屋内であっても火鉢以外の暖房設備などないから、策を労さずして出演者の吐く息が自然に白濁するのが見て取れる。野外では効果音なぞ用ゐなくとも本当に雪を踏みしめる音が凍てつく寒さを助長し、真実の迫力となって臨場感が弥増す。
この[臨場感]の差が、おのれの観賞姿勢を大きく左右しているように思う。前者があくまで[傍観者]としてしか視ていないのに対し、後者は自分自身が出演しているかのように[当事者]の一人として何時の間にか劇中に吸い込まれていく。そもそもドラマ自体すべからく【作り話(フィクション)】に過ぎないのだから、端から【実話(ホンモノ)】でないことぐらい百も承知の上だが、それを【実話】であるかのように見せるのがドラマ作りの原点であろう。単なる娯楽なら面白可笑しければそれで済むかも知れない。だが苟も芸術と捉えるなら、視る側の心の琴線に触れるか否かにかかっていると言えよう。伝統的な「浪花節(義理人情)」「判官贔屓」「教育勅語」「家制度」「国家総共同体(ゲマインシャフト)」など、今では廃れてしまった精神なり制度がキーワードになる気がする。
そうした要素をたっぷり含んでいるのが「用心棒シリーズ」である。比較対象にした『三匹-』のほうは、舞台こそ江戸時代の日本なれど、どちらかというと情緒もヘチマもない西洋趣味の西部劇に近い。
蛇足ながら、「用心棒シリーズ」唯一のカラー作品として【昭和42年芸術祭参加作品】を唱った第一作『俺は用心棒』第19話「眞葛ヶ原にて待つ」(昭和42年8月7日放送)がある。連続して視ると、モノクロ映像ばかり眼にしてきたのが突然カラー映像に切り替わるため、甚だ新鮮である。放送日は真夏なれど撮影は前年秋と見られ、山波の紅葉が目に染みる。赤地に白抜き「誠」の新選組旗印、水色だんだら染めのお揃い羽織がまぶしく映える。
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