『琴姫七変化』(讀賣テレ;昭和35年)については、忘却せし歌 その2(7月27日付)でチラッと触れた。子供向け『風小僧』(NET;昭和34年)を別にすれば、本作が手許にある最古(?)のテレビ時代劇ということになる。そこで今回、再度採り上げることにしたい。とは言え保有DVDは全105回中第二部からの抜粋版(45回分)であり、実質的には昭和37年の後期放送分のみに過ぎない。ご参考までに、DVD収録のサブタイトルを記しておこう。
・「めざし将軍の巻」(前・後篇)
・「姫将軍の巻」(前・後篇)
・「消えた十手の巻」(前・後篇)
・「喧嘩雛の巻」(前・後篇)
・「長屋騒動の巻」(前・後篇)
・「音無のかまえの巻」(前・後篇)
・「むささび団」(前・後篇)
・「火事場の鬼」(前・後篇)
・「殺し屋宿場」(前・後篇)
・「泥棒宿場」(前・後篇)
・「対決深編笠」(前・後篇)
・「殴り込み姫君」(前・後篇)
・「二人琴姫」(前・後篇)
・「無法宿場」(前・後篇)
・「異人屋敷」(前・後篇)
・「南海の鬼火」(前・後篇)
・「黒い十字架」(前・後篇)
・「二連銃の行方」(前・後篇)
・「白頭巾の巻」(前・後篇)
・「千両渡し」(前・後篇)
・「嵐を呼ぶ馬車」(前・後篇)
・「黒こまの秘密」(前・後篇)
・「姫君万才」
お復習いの意味でざっと再見聞してみた。う~む、1970年代以降の殺伐とした西部劇風「戦後派時代劇」とまるで異なるのは当然としても、然りとて湿っぽい浪花節風「伝統的時代劇」の範疇にも入れ難い。強いて特徴付けるなら、子供も視る一家団欒の放送時間帯(土曜19時~30分)を考慮してか、レギュラー陣の言葉遣い(台詞)が平明かつ丁寧なことぐらい。
否、それは皮相な観方でしかあるまい。内容をよくよく吟味すると、示唆に富んでいてどことなく教訓的である。けれども、後年にありがちな、一方的な価値観の押しつけでないのが好い。押し付けがましさを感じさせないのは、相反する二つの主義主張を対比させ、視る側に与するほうを選ば(考えさ)せる仕掛けになっているからだろう。戦前教育がそうであったように、これこそ【教える】より【学ばせる】ことに主眼をおいた我国独自の古典的伝授(指導)法なのだ。そういう意味では、戦後の倫理道徳教科書に合わせたというより、【教育勅語】の実践教材たる修身課目に近い。
例えば「消えた十手の巻」。北町奉行所同心青木左門(小杉明男)は、“鬼の左門”と異名を取るほど悪人に厳しく恐れられている。左門は『痛い目に遭わないと悪の性根は治らない』が持論。これに対し琴姫は『十手は教え導くもの、人を痛めつける道具ではない』と諭す。或る日十手がなくなったのをかつて痛めつけたお銀(国友和歌子)、伝次(野崎善彦;ともに更生済)らの仕返しと勘違いし疑う。しかし、どぶに嵌ってまで血眼に十手を捜す左門を哀れんだ彼らは、むしろ左門の十手捜しを手伝う。十手改めの刻限になっても見つからなかったため、辞める覚悟を決めて奉行所門前に立ったとき、最愛の妹香織(佐治田恵子)が袖の下からそっと十手を差し出す。実は、仕事熱心な余り度々十手を責め道具にして人々を苦しめる兄を案じた妹の仕業であった、というお話。
どうでもいいけど、制作費節約のためか、琴姫らレギュラー陣を除く出演者(特に悪役)は、役柄が違うだけで毎回同じ顔ぶれというお手軽さ。お世辞にも手間暇かけた作品とは言い難い。それでも、スタッフ・キャスト全員が一丸となって一所懸命真面目に取り組んでいるように窺えて微笑ましい。ただ唯一、『私は徳川琴です』などと称する場面に違和感を覚える。たとえ武家・公家の高貴な家柄に生まれたにせよ、江戸時代の婦女子や庶民が名字(苗字)を名乗ることは許されなかったはず。(註;名乗れないだけで必ずしも名字を持たなかったわけではない)
なお、ドラマに出て来る第11代将軍徳川家斉とその末娘琴姫ともに歴史上実在した人物とされる。しかし史実では家斉(1773-1841)の末娘でなく、26男27女のうち第二十二女(母;側室お以登の方)で満1歳(1815-1816)にして早くも亡くなっている。それにしても家斉さん、53人も子供を設けるなんて大した性豪だったのですね。
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