脚本家結束信二(1926-1987)のことは、昔の時代劇(8月1日付)で書いたとおり、時代劇には欠かせない存在である。映画・ドラマの分野でとかく監督(演出家)ばかりが脚光を浴びがちだが、小説・漫画等の原作ある場合を別にして、大筋はシナリオ(脚本)で決まる。つまり、シナリオの良し悪しが成否のカギであるにも関わらず、何故か脚本家はほとんど注目されない。なんて書いてる私奴とて、結束信二の名を知ったのは、つい先日のことに過ぎない。
彼が関わったTV時代劇で所有する番組(一部参加を含む)のみ記しておく。
・新選組血風録(NET;昭和40年) - 司馬遼太郎原作
・俺は用心棒(NET;昭和42年) - オリジナル
・待っていた用心棒(NET;昭和43年) - オリジナル
・用心棒シリーズ俺は用心棒(NET;昭和44年) - オリジナル
・天を斬る(NET;昭和44年) - オリジナル
・花のお江戸のすごい奴(関西テレ;昭和44年) - オリジナル
・燃えよ剣(NET;昭和45年) - 司馬遼太郎原作
・軍兵衛目安箱(NET;昭和46年) - オリジナル
・隼人が来る(フジ;昭和47年) - オリジナル
・桃太郎侍(日テレ;昭和51年) - 山手樹一郎原作
原作ある場合を除き、どれも似たように見えてしまうのは、致し方あるまい。それが脚本家の個性(作風)というものなのだから。その意味で、ゲスト出演者(各話の中心人物)の倖薄い人生を浮き彫りにするような作風を特徴とする。彼らは概ね女・子供、百姓、町人といった「弱者」たちであり、例えば『用心棒シリーズ』の場合、「強者」たる主人公(用心棒)がそれを守護する立場で物語が展開して行く。したがって、総じて暗く陰鬱になりがちで、視聴者の涙を誘う浪花節的要素が前面に押し出て来る。
突然話が逸れるが、急に想いが浮かんだので忘れないうちに書いておく。文学や美術なら作者(作家、画家、彫刻家)単独でも作品が完結するけれど、映画・ドラマ、音楽といった再現芸術ともなると、作者(脚本家、作曲家)以外にもスタッフ・キャスト、演奏家ら大勢の人々が関わらなければ完成しない。
実は、我国には伝統的に【家)】という概念があった。今では単一家族や世帯を指す語に変質してしまったし結婚式ぐらいしか用ゐられないが、公・武家なら「三條家」「徳川家」、商家なら「越後屋」「信濃屋」といった家・屋号自体が、一種の家族共同体(ゲマインシャフト)として機能していた。家・屋主の実家族のみならず、奉公人も身内(家族の一員)に遇されたからである。これが同族意識を醸成し、強い結束力に繋がっていたと考えられる。
何が言いたいかというと、昔の映画・ドラマは、旧き佳き時代の家族共同体の名残を留めているということ。分かり易く書けば、大勢のスタッフ・キャストが制作に加わっているにも関わらず、各個人があたかも同一家族であるかのように有機的に結びあって映るから不思議だ。それもそのはず、昭和40年代前半頃までの制作陣は、【家制度】を実体験してきた戦前派(アバンゲール)が主体だったのだから。
厳格な身分制度下での言動や立ち居振る舞い、行儀作法、何れをとっても西洋式個人的自由主義を至高の価値とする戦後派(アプレ)とは尽く異なって当然。現代劇ならいざ知らず、時代劇まで西洋的価値観が横溢するドラマなんて、無料でも視たくない。要するに、現代人の生活習慣そのものが【時代劇】当時のそれと大きく懸け離れてしまった以上、制作陣にとって骨の折れる仕事に相違あるまい。
アバンゲール【avant-guerre】
〔戦前の意〕戦前派
第二次大戦前に成人し、その思想・生活態度を身につけている人。
アプレゲール【après-guerre】
〔戦後の意〕戦後派。
第二次大戦後、日本で旧世代の文学者である野間宏・中村真一郎らが、自分たちと区別するために用いたが、後に無責任・無軌道な若者たちを指すようになった。
略して「アプレ」とも呼ばれる。
最新作の片岡愛之助主演『鬼平外伝最終章・四度目の女房』(スカパー!;2016年)を視て驚いた。内容はともかく、まるで外国人が作ったみたいな激しい違和感に襲われてしまった。第一、着物(和服)の着付けがだらしなく不自然に映る。その昔、外国人がイメージした“芸者ガール”をつい連想してしまった。立ち居振る舞いも尽く今風であり、当時不作法とされた所作が平然と頻出する。尤も、三百年近くも昔の物語ゆゑ、知らなくて当たり前か。
結束信二の作品について書くつもりが、とんだ方向に逸れてしまった。次稿以降に移すことにしよう。
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