昔のテレビ時代劇を「浪花節的」などと書いているが、多分に観念的かつ抽象的な概念なので、人によっては何のことだかよく分からないかも知れない。そこで辞典(事典)上の解釈をコピペしておこう。
浪花節的
言動や考え方が義理人情を重んじ、通俗的で情緒的(emotional)であるさま。
義理人情
義理人情は、日本における濃密な人間関係、社会関係を維持存続し、さらには強化するための、日本の社会と文化に根ざした習俗であり、社会規範である。
日本における「義理と人情」との関係には、(1)「義理と人情の板挟み」ということばに示されるように、「義理」がわれわれを拘束する一種の社会規範であり、それが人間の情欲や人間らしい思いやりの情としての「人情」と対立・葛藤の関係にあって、人が自己の身の処し方に悩む場合と、(2)「あの男は義理人情を解する男だ」という表現に示されるように、両者がいわば一つのセットとなって、情緒的な人間関係に根ざした心情道徳という性格をもつ場合、の両面がある。
また義理だけをみると、「お義理でする」という表現に示されるように、いやいやながら調和的な人間関係、社会関係を維持するためにある行為をなす場合と、「あの男に義理が悪いから」という表現に示されるように、当事者間に心情のつながりがあって、それを維持強化するためにある行為をなす場合、の両面がある。
なぜ義理や義理人情はこのようにアンビバレント(正逆背反の両面的)な性格をもつのか。それには日本社会の共同体的性格が強くかかわっている。そこでは人々は、一方では相互に心理的依存関係を保って、この調和的な社会関係、人間関係を維持することに細かく心を遣う。しかしこの関係は永続するから、他方ではこのような心遣いをすることを疎ましく思い、それを心の負担に感ずることがあるのである。[日本大百科全書]
日本古来の精神文化と言っても、太古の昔から存在したとするのは早計である。而して「浪花節(浪曲)」にせよ「義理人情」にせよ江戸時代中期に勃興し幕末(近世)以降に流行した文学・芸能上の一潮流にすぎないらしい。したがって、老若男女・身分階級を問わず、当時の人々が挙って同様の精神を抱いていたとは思えない。然りとて、流行ったからにはそれを肯定的に受容する土壌が在ったからに他ならない。
表現の多様性まで否定するものではないが、映画もテレビドラマも芸能に属する一分野である以上、現代劇ならいざ知らず時代劇であればこそ当時の世相を反映したものでなければならない、というのが私奴の考え方である。戦後、西洋的価値観を無批判に妄信する【大衆】の跋扈とともに、「浪花節」も「義理人情」も急速に廃れてしまった。斯く謂う私奴とて、子供の頃は「浪花節」が嫌いだったし、「義理人情」も意に介すことなどなかったのに。
ところが、滅び行く物への愛惜の念というか、年齢を重ねるごとに茫漠たる寂寥感に苛まれてしまう。そうそう、この「滅びの美学」というのも日本人の伝統的精神として広く人口に膾炙している。これは、【万物は生滅を繰り返し、片時も同じではない】とする仏教的無常観が転じて【生者必滅】を知覚した死生観に結びついたとされる。[花は散り際][蝋燭は燃え尽きる際]が最も耀き美しいように、自らの[死に際]も美しく耀きたいと願う考え方である。「浪花節」「義理人情」と同様に、西洋流「生命至上主義」の前に跪く現代人にとっては、単なる忌まわしい迷信に過ぎないようで、完全に忘れ去られようとしている。
初期の『鬼平犯科帳』(NET;昭和44年)、『水戸黄門』(TBS;昭和44年)、なかんずく結束信二原作・脚本に成る『用心棒シリーズ』全四作(NET;昭和42年)を高く評価し好むのは、全話ではないにせよ、随所が「浪花節的」であり「滅びの美学」の残滓も窺えて、つひつひ泣かされてしまう。近時の時代劇と決定的に異なるのは、メインゲスト(各話の主人公)が概ね死んで(滅んで)終わるように作られている。戦後の作品ゆゑに、《一つしかない生命は大切にしろよ》との台詞も飛び出すけれど、挙げ句の果てにこの結末だから【死】がいっそう際立つところがミソ。嗚呼!「昭和」は遠くなりにけり。
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