待望していた「用心棒シリーズ」(NET)の第1作『俺は用心棒』(昭和42年)と第2作『待っていた用心棒』(昭和43年)の放送が始まった。各々全26話中の第2話までしか未だ視てないが、既に保有する第4作『俺は用心棒』(昭和44年)から想像していた期待を裏切られてしまった。つまり、第4作が究極の完成作であることが判明した次第。
キャストに限っても試行錯誤(?)が窺える。第1作で毎回出て来るのは栗塚旭のみ、島田順司も左右田一平も必要に応じてしか登場せぬ準レギュラーに過ぎない。第2作は逆に栗塚が引っ込み、伊藤雄之助、高橋俊行を加えたレギュラー4人体制となる。なるほど[男っぽい]点が共通するものの、第4作に比べて詩情性に乏しく、銘々異なる[生きざま]の描き方も浅きに失した感を免れない。
昭和40年代初頭のTVドラマであれば、むしろ子供向け30分番組のほうが、違った意味で愉しめる。制作は同じ[東映]、『悪魔くん』(NET;昭和41年)と『仮面の忍者赤影』(関西テレ;昭和42年)がそれ。前者がモノクロ現代劇、後者はカラー時代劇という違いがあるものの、折からの怪獣・忍者ブームに肖った漫画が原作(水木しげる・横山光輝)である。また、それぞれ後年になってアニメ版が作られているけれど、ともに実写版である点が興味深い。
当時既に成人(20歳)直前にあって[子供]を卒業(?)していたため、原作漫画・テレビ放送とも、リアルタイムではほとんど見ていない。ゆゑに老境(68歳)に達した今回が初見同然のありさまだ。したがって、懐かしさがない代わりに妙な先入観もなくて視ることが出来る。それで判ったことは、子供向けにしては老若男女を問わず愉しめるように作られている、ということ。一家に一台しかテレビがなかった時代なればこそ、の仕様(?)であったのかも知れない。
[違った意味]と書いたのは、物語自体が荒唐無稽であって時代考証もヘチマもない。早い話がナンセンスを窮めた面白さだからだ。しかも、30分番組という事情も手伝って目が回るほど展開が忙しい。基本的には単純な[追っ駆けっこ]の連続なのだが、手を替え品を替えて次々と妖怪・怪獣・新兵器の類が登場する。因って視る側の適度な緊張感を損なうことなく、決して飽きさせない仕掛けにもなっている。ちょうどテレビ界が創成期を経て爛熟期に差し掛かり、エログロナンセンス時代の到来を象徴するかのよう。ただし、所詮が子供向け番組のこととて、流石にエロ場面だけは出て来ない。正真正銘のエログロナンセンスドラマは、『西遊記』(日テレ;昭和53年)の出現まで待たねばならない。
これらB級作品(?)を十把一絡げに称讃するつもりはないが、ついうっかり引きずり込まれてしまう魔力が潜んでいる。しかし、[ナンセンス]はともかく、[エロティック]も[グロテスク]も締め出して完全無菌化(?)された非現実的今風ドラマは、ただ視ているだけで苦痛が伴う。なぜか? 人間の生理的欲求に逆らい、[正邪]どちらか片側を欠くからに他ならない。正なる[真善美]に対する邪なる[偽悪醜]もろとも抹殺したくても、そもそも無理な話である。如何なる[邪]をも忌み嫌ったところで、常人なら誰しも持っている一側面に過ぎないことは、厳然たる事実なのだから。映画・ドラマ制作に携わる現代人は、見せかけの数字や机上の空論に惑溺するばかりで現実に目を背けた[世間知らず]も甚だしい。要するに、《専門バカ》に成り果てているのである。みんなしてそうとまで言わないが・・・。
日本型組織が求めた人材とは? スペシャリスト(専門家)でなくセネラリスト(教養人)とした理由が、正に此処にあった。日本には我が国情に合った考え方が、昔からあるのだ。ところが、何でも西洋(欧米)流を無批判に崇めているから、分かりきった同じしくじりを何度も繰り返すことになる。
【エログロナンセンス】
扇情的で猟奇的、かつばかばかしいこと。また、そのようなもの。
大正末期・昭和初期の低俗な風潮をさす語。
『悪魔くん』(NET;昭和41年)
『仮面の忍者赤影』(関西テレ;昭和42年)
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