黄金週間(ゴールデンウィーク)の民族大移動(?)も終盤にさしかかり、ようやく平常に戻りつつある。一年のうち正月(1月)、旧盆(8月)、黄金週間(5月)だけは、明治以降の国民的休暇として定着してきた。とは言え、現役時代ならともかく、個人的には毎日が休日の現在、最早他人事でしかない。この年中行事は労働を悦びとする勤勉な国民性ゆゑの副産物であったのだが、何時の頃か欧米を中心に諸外国から【働き過ぎ日本人】の不当な中傷迫害を受け、《週休二日制実施》《祝祭日増加策》などが施され、今日に至る。その結果、どうなったかは言うまでもなかろう。
その昔、『一億総白痴化』(大宅壮一;;昭和32年)や『女子大生亡国論』(暉峻康隆;昭和36年)といった社会批判論が喧しかった時代がある。当時は未だ義務教育下の一生徒(つまり子供)であって、用語として知っていても理解するには幼すぎた。ただし、五年後(昭和41年)には、後者の講義を受けていてまんざら無関係とも言えない。
要約すれば、前者は「テレビ番組は総じて低俗なものであり、国民の知的生活(教養)を著しく阻害する」。後者は「何れ嫁に行き家庭に収まる腰掛け的女子学生が増加し、有能な男子の門戸を狭めている」といった批判である。半世紀以上も昔のこととて、社会構造そのものが大きく変化してしまい、批判の当否を即断できないが、【テレビ番組が低俗である】ことについては、ますます拍車がかかっているように思う。
昭和30年代後半から昭和40年代にかけ、『朝のテレビ小説』(NHK)と『ポーラテレビ小説』(TBS)という女性向け15分ドラマが張り合うようにあった。女性向けなので興味があったわけではないが、放送時間が通学・通勤時間帯だっただけに、時計目当てでよく視ていた。NHKで言えば、第1作『娘と私』(昭和36年)~第12作『藍より青く』(昭和47年)辺りまでなら記憶にある。TBSのほうはありゃりゃ、『パンとあこがれ』(昭和44年)と『安ベエの海』(昭和44年)だけだな。本来が女性向け番組とはいえ、ちょうどホームドラマ全盛期にあって家族ぐるみで愉しめるよう作られていた(と思う)。自分もそうだが、これらを【低俗番組】と謗る人など当時なかったろう。なぜなら、ちゃんとした原作(獅子文六、壺井栄、武者小路実篤、林芙美子、佐藤愛子ら)があって、ちゃんとした脚本家(田中澄江、橋田壽賀子、平岩弓枝、井手俊郎、山田太一ら)が書いていたのだから。
『ポーラテレビ小説』は昭和末期に終了したが、『朝のテレビ小説』は今なお続いている。たまたま、CS293ファミリー劇場で『あまちゃん』(2013年)を再放送中である。どんなものかと比較検証する意味で録画して視てみた。いやぁ、腰を抜かしましたねぇ。自身が時代に取り残されたせいか、まるで異文化にでも接したかのようで、見続けるのさえ苦痛に感じてしまう。
主演の能年玲奈さんはもちろん知らないが、両親役(尾美としのり、小泉今日子)、祖父母役(蟹江敬三、宮本信子)は知っている。ただし、昭和期の姿しか記憶にない。ゆゑに、浦島太郎の心境である。無論、ケチを付けるつもりで見始めたわけではないのに、悪いけど取り付く島が皆無なのである。老若男女を問わず、誰が視ても愉しめるのが【ホームドラマ】の好さ。このドラマで言えば、自分は祖父母の世代に当たろうか。ところが、その祖父母が、演技とは言え自分とはまったく異質の酔狂人として描かれるため、共感どころか嫌悪感さえ覚えてしまう。何より三世代にわたる【家族】としての一体感がなく、個々人がバラバラで【家族】の体を成してないのだから、【ホームドラマ】と呼べるはずもないではないか。
昔の【朝ドラ】からは、某かの共感や感動・憧れといった高レベルの視聴感が得られたものだが、今や言葉遣いは汚いし単なる低俗な馬鹿騒ぎを見せられてるだけみたいな気がしてならない。つまり、視聴者である自分より低レベルに成り下がってしまったということだろう。大宅壮一の謂った『一億総白痴化』ならぬ、『テレビ番組総白痴化』ですな。
『おはなはん』(昭和41年)
おぉ、懐かしい。放送では倍賞千恵子の歌はなし。
『あまちゃん』(平成25年)
約半世紀という時の流れを感じさせてくれる。自分にとっては、もはや異文化である。
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