前稿では、今時のホームドラマと昔のそれを比較し、共通点や相違点を探ろうという意図で書き始めたつもりだったが、韓流ドラマを視た後なので図らずもこれとの比較に終始してしまった。そこで今回は、所期の目的どおり昔のホームドラマと比べてみたい。但し、飽くまで主観に満ちた個人的な論評に過ぎないことを予めお断りしておきます。
まずは、世代こそ違えど同じ日本人が描くドラマだなぁ、という感慨が湧いてくる。何故だろう? 日本には叙事詩(神や英雄を讃える長編物語詩)が存在しないとよくいわれる。しかし、単にそれを確認せんがために書くわけでもない。尽く征服王が支配してきた西洋諸国や儒教文化圏(具体的には支那大陸と朝鮮半島)とは異なり、八百万神および万世一系の天皇を戴く我国には、一神教的絶対神や民族的英雄など必要としなかったろうことぐらい、容易に想像できる。
それより、人間の持つ「理性」と「感性」に分けると、日本人は感性的民族ではないかと常々思っている。もちろん、「理性」に欠けるなどと言うつもりは毛頭ない。他人種・民族と比べてどちらかといえば「感性」を重んじる傾向にあるのではないか、と言いたいだけである。それほど我らは、生まれながらに感受性が鋭いらしい。究極は、物音一つしない場面を「シーン」という擬音文字で表現したりする。子供の頃から慣れ親しんている我ら日本人なら当たり前のこととして気にも留めないが、外国(とつくに)の人々にとっては、「音」の無い「擬音」なんぞ逆立ちしても理解できまい。
前稿で、『世の中は、眼に見えるものだけで成り立ってるわけじゃない』の台詞に着目したのは、これですよ、これ。眼に見えないものや耳に聞こえない音など、凡そ非現実的な事象まで知覚してしまうのだから、特異な民族というかとにかく凄い。前々段の感慨も偏にこの一点に尽きる。某政党のスローガンに《日本を普通の国に!》などという的外れなものがあるが、とんでもない。我国は良い意味で【特別な国】なのですよ。
本題であるホームドラマの今昔という点からすれば、共通項は情(なさけ;他人をいたわる心)を巡る人間関係ドラマである点か。今時のドラマと言っても、この『ゴーイングマイホーム』だけしか視てないからそう感じるのかもしれないが、昔のほうがもっと身近でより現実的であったように思う。伝説の【クーナ】なる小生物は、辞典には載ってないので、どうやらドラマ上の創作みたい。加えて、それを信じて学校で騒ぎを起こす坪井萠江のキャラクターも今時の普通の少女とは言い難い。それやこれやで、物語そのものが嘘っぽく映ってしまう。その点、同じ阿部寛主演の『結婚できない男』のほうが、現実味があって共感できる。
何も現実的なドラマのほうが良いと言いたいわけでない。おのれの日常から懸け離れたドラマだと、まるで別世界の出来事を視せられているようで、登場人物の誰かに自分を置き換えて劇中に潜り入り込むような制作陣と一体となった見方が出来ないのですよ。だから、視終わって反感がない代わり、共感も出来ない無感動なドラマに思えてしまう。事実、『結婚できない男』では、主人公桑野信介(阿部寛)におのれをダブらせて視ることが出来た。年齢・職業など大きく違えど、自分も【結婚できない(かった)男】の一人でっすからね。
そうそう、この桑野信介さん、《空気が読めない男》の代表みたいに描かれていたなぁ。【その場の空気(雰囲気)を読む】なんて、良くも悪くも日本人ならではの状況判断の仕方でしょうね。眼に見えないとか耳に聞こえないなかで状況を把握する能力。これこそが如何にも日本的ではないか。昔の時代劇なら、【殺気】なる表現がよく用いられていた。まさに斬りかかろうとしているわけでもないのに、なぜ姿の見えない或いは姿さえ見ない状況下で、今にも殺さんとする相手(敵)の内心を察知出来るのか。それこそ、【その場の空気を読んだ】からに他ならない。【殺気】ではないが、誰かに尾行されているとか、人気(ひとけ)のないところで人の気配を感じたりしたことなら、自分にも経験がある。ただし、本当に尾行されていたか人が居たかなど、確認できる物証など何もない。従って、単なる思い込みによる勘違いだった可能性もある。
これが日本古来の【勘】っていうヤツですな。昔ながらの職人は独自の【勘】を持っていて、それぞれの職人技に活かしていたものである。飽くまで個人的な感想ながら、近頃の職人の資質が著しく低下している気がする。【勘】などといった非科学的要素を前近代的として根刮ぎ否定し、職人自体がサラリーマン(会社員)化してしまったせいだと思う。何でも見てくれ(外見)だけ西洋を模倣すればよいわけではない。我国には国民性に適う独自の方法・方策があるはずだ。職人の【勘】もその一つ。これは、教われば習得できるものではない。経験を積む過程で自ら培い身につけて行くものである。
ある意味我国は、【普通の国】へと次第に成り下がっている気がしてならない。外見はともかく、日本的なものの根幹を成す我が民族独自の高貴な精神(他者への思いやり)そのものを、皮肉にも無批判な西洋信奉者を筆頭に、現代社会自体が尽く否定するかのような風潮にあるからだ。
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