今年は戦後70周年だとか。我が生年1948年(昭和23年)がちょうど明治80年なので、終戦時1945年(昭和20年)は明治77年だったことになる。明治100年祭があった1968年(昭和43年)の流行語【「明治」は遠くなりにけり】を借りると、もはや【「昭和」も遠くなりにけり】である。独立不羈の近代国家建設のために断行された明治維新より147年このかた、我国は先人たちの遺志を裏切り、“独立国家”の体を成さないまでに落ちぶれ果ててしまった。
『世界列強』の語がある。概ね軍事的・経済的に優位な強大国を指す。第二次世界大戦以前(即ち「戦前」)、【英・米・仏・独・伊・ソ(露)】の欧米諸国に伍し、我国は衆目が認める名実ともにアジア随一の強国だった。今日現在の勢力図はどのように変わったか。一般的には、【英・米・仏・独・露・中・日】となるらしい。何のことはない、中国がイタリアと入れ替わっただけである。ただ、この中国となると、日本敗戦のおかげを以て端無くも「戦勝国」となったため、謂わばタナボタ式で得た地位に過ぎない。
先の大戦で敗北した日独伊同盟国側のうち日独は、戦後70年を経た現在もしぶとく『列強』に名を連ねている。しかし、実感が伴いませんな。明治維新より約150年後の今日、改めて我国の歴史を俯瞰すると、ほぼ中間点にあたる終戦時(1945年=昭和20年)がちょうど分水嶺になる気がする。つまり、外見はともかく我々現代(=戦後)人の物の考え方(価値観・精神)は、先人たちとはまるで別物(正反対)になっていまいか。
戦後の連合国軍(はっきり言って米軍)占領下、軍総司令部(GHQ)の「日本弱体化政策」に我々はまんまと嵌められたわけである。こうして現状(戦後体制)の全てをGHQのせいにするのはラクだし簡単だが、むしろ積極的に協力推進してきたのが他でもない我が同胞なのだから、事態はややこしい。
如何に「戦後民主主義教育」を受けようと、おのれの子供時分(1950年代)は、大人たちみたいな分別・打算がない分、少なくとも精神面では戦前と確実に繋がっていた。敗戦にも拘わらず【アメリカが卑怯な手(原爆を指す)を使った】とか【精神(死を恐れぬ勇猛さ)では勝っていた】と結論づけ、【正々堂々と再び干戈を交えれば、我軍(日本)の大勝利間違いなし】とする意見が大勢であった。
そう、思いっきりの暴論だが、【戦後レジーム】から手っ取り早く脱却するには、【再び戦争するに如くは無し】だったのである。そうすれば忽ち「戦後」でなくなり、「戦前・戦中」に早変わりしてしまうのだから。少なくとも当時の子供たち(団塊の世代)には、多かれ少なかれそうした覚悟(自覚)があったと思う。
左の画像を見ていただきたい。小学校卒業文集(昭和34年度)『記念の落書き』に描かれた児童の絵である。男児衆ページのみだが、主に戦闘機・戦艦・戦車を描いているではないか。かといって、先生に叱られたり描き直すように諭された記憶はない。当時の先生方は、みんな戦争の実体験者だったから、“軍国少年=愛国者”まで否定してしまうと自身が受けた戦前教育そのものの否定にも繋がりかねないので、複雑な胸中であったに違いない。
前稿でも採り上げたホームドラマ『3人家族』(昭和43年)で、息子たちを決して怒ったり殴ったりすることのない人の好い父親(三島雅夫)が、軍隊時代には怒り心頭殴りまくっていたことを語る場面がある。日本の敗戦を賢しらに臭わす部下の言動が、無性に腹立たしかったと言う。おそらく絶対多数が同じ思いであったろう。そう言う意味で、子供時分の自分の精神に通じる話ではある。なお、我が父は、軍隊時代についてつひに一言も語ることはなかった。中支戦線でアメーバ赤痢に罹り、部隊を離れて帰国した“負い目”があったと想像している。
それが何時の間にか、【戦後体制】に痛痒を感じなくなってしまったのだから、他人様に語る資格はないが、年々酷くなっていくような気がしてならない。
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