ゼンハイザーのヘッドホン「モメンタム(MOMENTUM)」を手にして、十日あまりが経った。目下、馴らし(鳴らし?)運転(エージング)中だが、今のところ「音質」的な不満はない。しかし困ったことに、高級品なるがゆゑか【余計なこと】までする。音源を含む他オーディオ機器を【試す】のである。つまり、DAP(デジタル・オーディオ・プレーヤー)やPHPA(ポータブル・ヘッドホン・アンプ)の良し悪しがモロに顕れがちということ。
iPod touch(4G)からWalkman F887→A16へとDAP機種を替えた際、ソニー製はアップル製より遙かに音質的な優位性がある(と思い込んでいた)。事実、それを裏付けるように、米国HeadAmp社製PICO USB/DACを通して聴くパソコンのオリジナル音源とWalkman直挿しでは、さほど変わらないようにしか聞こえなかった。ただし、これらは全てカナル型イヤホン(シュアーSE535LTD、ゼンハイザーIE80、ウェストンW40)による結果にすぎない。
カナル型イヤホンは携行するには重宝な反面、スケール感や臨場感に乏しい。とりわけ、愛聴盤の大部分を占めるモノラル録音が大の苦手ときたもんだ。オツムのてっぺんに一極集中したみたいで甚だ具合よろしからず。しかも、高域に金属を擦るような不快な共振を伴うからなおさら始末が悪い。目一杯鳴ってるせいかもしれない。オーバーヘッド型ヘッドホン「モメンタム」を買ったのも、こうした不満を解消するためであった。
愛聴盤の一つにクレメンス・クラウスの録音がある。彼は《ニューイヤーコンサート》の創始者としても有名。『こうもり』『ジプシー男爵』両全曲盤、『シュトラウス一家コンサート』のCD三種所有しているが、どれも素晴らしい。ところが、全てモノラル録音のせいもあってか、DAPに落として聴くと、貧弱かつ高域キンキンでとても聴けない。ところがですねぇ、次の組み合わせだと、大袈裟に言えば高級オーディオ装置にも比肩する聴感が得られるのですよ。
DAP→ソニー Walkman NW-A16(マレーシア製)
ドックケーブル→Fiio L5(中国製)
PHPA→フォステクス 真空管アンプHP-V1(日本製)
ヘッドホン→ゼンハイザー MOMENTUM(中国製)
ソニーは日本企業なれど製品自体がマレーシア産だから、国産品はHP-V1だけ。ポータブルタイプにしてはデカいし重すぎるが、音質向上になくてはならぬ役割を担っている。即ち、如何なモメンタムといえど、Walkman直挿しだと音量最大(30)でも、貧相でスカスカな音しか出ず、そこらの安物ヘッドホンと変わらなくなってしまう。ところが、HP-V1を介した途端、高級オーディオ装置で聴くかの如く、劇的な音質向上が見込める。いや、【音質向上】というより、そもそも次元が違うと言ったほうが正確かもしれない。繋げるオーディオ機器が低レベルでは実力を発揮できないということか。カナル型イヤホンでは聴き分け出来なかった事象である。
比較に使用した音源は次の演奏。
ヨハン・シュトラウスⅡ世《ワルツ「美しく青きドナウ」》(1951-53)
by クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィル
旧き佳き時代を彷彿とさせるウィーン・フィルの音色と貴族的小粋な風格が漂う指揮振りが堪らない。こうしたニュアンスは、カナル型イヤホンやDAP直挿しヘッドホンでは容易に伝わりにくい。この時代のウィーン・フィルは、まだローカル(地方)色を厳然と留めていたのですね。戦時中録音の次の演奏は初めて聴くが、ウィーン情緒がさらに色濃く出ているように思う。
ヨハン・シュトラウスⅡ世《ワルツ「美しく青きドナウ」》(1940)
by クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィル
ウィーン・フィルはその昔、ハプスブルグ帝国領域内(現;オーストリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキア)出身の男性のみで構成されていたという。近年になって時代の流れに抗しきれず、女性楽員も受け入れているとか。また、ウィーン製楽器を用ゐることでも知られるが、今や製造業者が壊滅して楽器のメンテナンスに難儀しているらしい。聞きかじったところによると、日本のヤマハが調音を一手に引き受けているのだそう。それやこれやで、ウィーン・フィル独特の音色は、もはや聴けなくなってしまった。
ヨハン・シュトラウスⅡ世《ワルツ「美しく青きドナウ」》(2011)
by フランツ・ヴェルザー=メスト指揮ウィーン・フィル
伝統からいえば、指揮者ヴェルザー=メストは生粋のオーストリア人だし、女性楽員が混じっているとはいえ、大多数は伝統に則したハプスブルグ帝国内の男性楽員たちである。しかし、そこから紡ぎ出される音楽は、創成期の精神を忘れて《ニューイヤーコンサート》の伝統的スタイル(かたち)のみに寄りかかり、地方色(ウィーン情緒)が失せた国籍不明な美音を奏でるだけの演奏に堕している気がしてならない。
オーケストラといえども、生身の人間が奏でるわけで、自ずと国民性や個々の思想信条が反映して然るべき。昔は「戦争の時代」なればこそ、楽員とて「愛国者」の集合体に他ならず、今時のグローバルスタンダード(国際標準)とは対極にある精神構造で成り立っていたろうことは想像に難くない。そもそも音楽(芸術)界に「国際標準」など存在するはずがないのだ。言い換えれば、地方色豊かで国威発揚然とした演奏ほど聴衆の感動を呼び覚ます。この曲がオーストリアの「第二国歌」と称される所以でもある。因みに、諸外国が一様に認める我が国の「第二国歌」は『さくらさくら』なのだとか。個人的には『海ゆかば』ではないかと思うのだが。
コメント