前稿では、コンヴィチュニー盤ベートーベン『英雄』を試聴曲に、設定を同一にしてWalkman NW-A16とNW-F887を比較してみた。結果、聴感がずいぶん異なったわけだが、この違いこそがDAPの実力というものだろう。ただ、目的が比較にあったので、第一楽章冒頭の数分間しか聴いていない。従って、【明るく元気が良い】とか【重量感が増す】といった皮相な感想しか思い浮かばなかった。
このたび、落ち着いたところで、全曲とおしてじっくり聴き比べてみた。そして、懐メロファンを自称する者として、重要な観点が抜け落ちていたことに気づいたのである。それは《リアルタイム》か《懐メロ》か、の違い。一般に、初めて聴く歌や曲を《懐メロ》とは呼ばない。《懐メロ》を謳うアルバムであっても然り。何某かの想い出と共に、ずっと後年になって同曲同演を耳にした時点で改めて《懐メロ》に変わる。
わかりやすく付言すると、《リアルタイム(同時性)》と《懐メロ》は両立しない。なぜなら時系列的観点からは、《リアルタイム》が【現在進行形の事象】であるのに対し、《懐かしのメロディ》の略語としての《懐メロ》はその語が示すとおり、現在から見た【過去の事象(メロディ)】を指している。ゆゑに、【過去】に一度も聴いたことがない(つまり、生まれて初めて聴く)メロディは《懐メロ》には成り得ない、ということ。
古典音楽(クラシック)とて例外ではない。その点、前稿でも書いたように、当該盤は私奴にとっての《懐メロ》に属する。ところが“過去の音の缶詰”にも拘わらず、A16では生気が漲って聞こえる。モニターライクな音作りの成果ここに極まれり。各楽器の奏でる音が明瞭に聴きとれるので音楽に“凄味(迫力)”が宿り、まるでコンサートの生演奏をリアルタイムで聴くかのよう。そんなことは現実に有り得ないのだが、初めてレコードを聴いたときよりも遙かに生々しく、演奏会場に居合わせたような昂奮が伴うから不思議だ。半世紀を経た現在、再生装置がそれほどの進化を遂げた、ということだろう。
一方のF887はどうか。寝ホンするのに最適な、優しく心地よい音色で鳴ってくれる。個人的にはこちらのほうが断然好みなのだが、《心地よい》ということは現実から遊離した《夢(虚構;ウソ)の世界》に通じている。何となれば、実は《本当の音》でなく、《幻聴》を聴かされているのかも知れない。ちょうど、昔聴いた曲が夢の中で聞こえて来て、その頃の想い出まで去来し懐かしくなる心境、とでも喩えておこう。これぞまさしく、《懐メロ》の醍醐味ではなかろうか。
しかし、どちらが“本物(録音された「音」)”に近いかと言えば、前者(A16)に間違いなかろう。初めてこのレコードに接したとき(高一時分)、A16のような《ド迫力》の昂奮は得られなかったと思うが、それは再生装置が幼稚だったせいで、演奏自体の責ではない。では、F887みたいに心地よく聴けたかと言えば、これも違う。ゴツゴツした武骨な演奏が耳に心地よいはずはないし、初めて聴くわけだから懐かしい感情など湧き起こる道理もない。
時を経て今でこそ《懐メロ》だが、当時の自分としては、“新譜(実際は再発売)”も同然だったのである。今回、比較した音源自体がレコード現物でなくCDにリマスターされたものだし、再生装置も昭和30年代とは大きく様変わりしている。
それにしても、50年以上前の演奏(録音)が、いま音楽が生まれているかのように生々しく聴けようとは。技術革新恐るべし。
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