視るほどに後味の悪さが残る韓流ドラマへの反動から、昨年来国内ドラマに関心が移っていた。ところが、酷評してきた韓流との類似性が近年になるほど増しており、急激に視る気が失せた。おのれの感性や心情との隔たりがあまりにも大きすぎて、共感どころか激しい違和感さえ覚えてしまう。
したがって、「視た」というより「(視たくないものを)見せられた」という嫌な印象しか残らない。現役時代、仕事に追われてテレビどころではなかったとはいえ、なぜドラマを視なくなっていたのか、ようやく謎が解けたような気がする。
この違和感の原因はいったい何なのか。感情を露わにした大仰な演技とは裏腹に、心温まる情感が著しく欠乏している。それもそのはず、観念的な部分が悪しきものであるかのように極力排除され、科学的合理主義に基づく唯物的な描き方こそ当世風なのらしい。
結局、昭和期の『鬼平犯科帳』(子供時分に視た時代劇そのまま)と、最近のものでは小林稔侍の『窓際太郎シリーズ』(義侠心が満足できる)、渡瀬恒彦の『十津川警部シリーズ』(鉄道好きだから)ぐらいしか観賞に堪えなかった。三者の共通点は「娯楽」に徹していること、時流に逆らって非科学的な「勘」が決め手であること、そして何より、近時の流行である妙に説教がましく教訓的でないのがよい。
ヒマ人にとって、テレビドラマへの興味が失せたとなると、残るは旅行と音楽しかない。懐メロファンとして、歌謡曲は勿論、台湾やタイのほか、クラシックの懐メロまで採り上げてきたが、いわゆる「洋楽(西洋ポピュラー音楽)」はほとんど話題にしなかった。これでは片手落ちだから、この機会に触れることにする。
何度も書くように子供時分は、どちらかと言えば歌謡曲でなくロカビリー派だった。それもオリジナルより、カヴァーした日本人歌手のほうが懐かしい。ラヂオで初めてリアルタイムに聴いたのは、おそらく『ボタンとリボン』であった。
☆ ボタンとリボン by 池真理子(昭和25年)
☆ オリジナル盤
Buttons and Bows by Dinah Shore(昭和23年)
オリジナル盤も確かに聴き憶えはある。ただ如何せん馴染みが薄く、この曲は誰が何と言おうと池真理子さんでなければならぬ。昭和25年と言えば僅か二歳だったわけだが、ラヂオから流れ出るのを鮮明に記憶している。
☆ 青いカナリヤ by 雪村いづみ(昭和29年)
☆ オリジナル盤
Blue Canary by Dinah Shore(昭和28年)
こちらは両方とも馴染みがある。しかし、既にピカピカの一年生だったから日本語の歌詞ならある程度理解できたものの、英語はチンプンカンプン。どうしても雪村いづみ盤に与する結果となるのは言うまでもない。
☆ ウスクダラ by 江利チエミ(昭和29年)
☆ オリジナル盤
Uska Dara by Eartha Kitt(昭和28年)
こちらもよく聴きましたね。上記と同じ理由で江利チエミ盤のほうがより懐かしい。
こうしてみるとこの頃は、オリジナル盤から一年ほど遅れて日本へ入って来てたようですね。“元祖三人娘”としては、雪村いづみと江利チエミはジャズ畑出身で、美空ひばりだけが歌謡曲畑ということになる。
その美空ひばりだって、翌昭和30年にはシャンソン『薔薇色の人生』なんか出しているのですよ。そういう時代だったのでしょう。どうでもいいけど、雪村いづみは『あんみつ姫』、江利チエミは『サザヱさん』を映画の中で演じているからお茶目なイメージが付きまとうが、美空ひばりにはそれがない。鞍馬天狗の杉作役じゃ根が真面目そうな“男児”だしねえ。
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