今月9日にチェンマイから戻って以来、飽きた韓流ドラマの代わりに国内ドラマを視ている。BS各局とも地上波二時間ドラマの再放送が組まれており、年代で言えばおおよそ1990年代~数年前に制作されたものが主流。なぜか推理物が多くシリーズ化されたドラマもある。必ずしも制作順に放送されるわけではないが、時系列に依らずとも特段の違和感はない。
というのも、日本のドラマ制作の特徴として、NHK大河ドラマや朝のテレビ小説等を除けば、連続ドラマや不定期シリーズ物と言えども、概ね放送日毎に物語が完結する“一話完結方式”を採っている。そのため話数が前後しようと、毎回異なる事件(物語)を扱っているから、視聴者側にとっての不都合はない。
ところが、韓流連続ドラマの場合、大概全篇で一つの物語になっている。したがって、第1話から連続して視てないと物語がチンプンカンプンになってしまう。しかも、大抵はクライマックスで終わるように作られており、視る側は続き視たさのストレスがたまる。こういった制作スタイルは、その昔、子供向け活劇でよく目にした手法で、多分に“子供騙し”的な要素を含んでいる。
実際、主人公あわや危機一髪のはずが、次回ではそれが“夢”だったり、単なる思い込みだったりする。視る側はがっかりというより、騙された気分になって甚だ後味が悪い。韓流ドラマが総じて幼稚に思えて仕方がないのは、ワンパターンの物語展開や部品の切り貼り的な変わり映えしない作風もさることながら、こんな“子供騙し”的な手法を未だに使っているせいかもしれない。
そこで国内ドラマだが、社会人になって(1970年)以来、仕事に追われ視るヒマがなかったこともあって、ここ三四十年近くドラマ番組を視ていない。断片的には視たかもしれないが、少なくとも或る特定のドラマを心待ちにしていた、という記憶は全くない。ゆゑに、今BS各局で再放送されてる番組は、総てが初見である。
とはいえ、主演陣はいずれも既知の人ばかり。しかし、知っているといっても、ブラウン管に登場しはじめの若い駆け出しの頃だから、まるで“御伽の国”にでも迷い込んだような錯覚さえ覚えてしまう。それに、自分が選ぶのが偶々そうなのかも知れないが、昔と違ってやたら女性が主人公のドラマが多い。
それも、なぜか一人娘と暮らすキャリアウーマンと相場が決まっている。真野あずさ、賀来千香子、竹下景子、名取裕子、岡江久美子といった面々なら、もともとが女優なので、一種の“老け役(?)”と思って観れば理解出来なくもないが、これが片平なぎさや浅田美代子となると、『この子の母親です』などという台詞が飛び出した途端、目がテンになってしまう。アイドル歌手時代しか知らないからだ。
純愛(1975年) by 片平なぎさ
しあわせの一番星(1974年) by 浅田美代子
で、肝腎のドラマ内容だが、諸外国とは決定的に違う点がある。全てではないにしろ、やたら殺人事件が起る殺伐とした物語展開に反して、多くが浪花節調の人情話になっている。同じ殺人事件でも韓流ドラマは、善人対悪人の構図がはっきりした単純な勧善懲悪劇にすぎないが、国内ドラマの場合、それほどシンプルではない。普通の人間が、ちょっとしたボタンの掛け違いから犯罪に手を染めることになる。視る側をして、自分が犯人だったとしてもおかしくない、と思わせるところがミソ。だから、ついドラマの中へ引き込まれてしまうのだ。
やっぱり我が国は、『論理』より『情緒』の国ですね。
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