流行歌(歌謡曲)の世界と言えども、戦前から戦後まもなくの間は、クラシック畑(音楽学校出)の職業歌手(プロ)が多い。陸海軍楽隊出身者を加えた作曲界も、錚々たる文士による作詞界も同様。器用貧乏な現代タレント(芸能人)とは似て非なる彼らは、その道のマイスター(親方・師匠・名人)ばかりであった。大袈裟には「芸術家」と呼べよう。
☆ 街燈(昭和33年) - 三浦洸一
この人も東洋音楽学校(東京音大)声楽科卒の職業歌手。ヒットしたという意味では『弁天小僧』や『踊子』などが代表曲かもしれないが、銀座並木通りを模したガス燈に囲まれ、この曲を歌う姿をリアルタイムで視ていた。子供の眼には珍しい俯瞰映像だったので、強く脳裏に焼き付いている。ゆゑに、歌詞にはないものの、断じて銀座のガス燈でなければならぬ。家にTVが入ったのは翌年だから、かなり息の長い曲だったに違いない。歌も好いが、個人的には母方長兄の伯父さんに似ていて親近感がある。
☆ 銀座九丁目水の上(昭和33年) - 神戸一郎
フランク永井、三船浩、石原裕次郎らと並ぶ低音ブームの火付け役。男声と言えども、テナー(中音)が主流だったこれまでの反動だろうか。今風には“イケメン歌手”の先駈けでもある。TVが普及し始めて歌唱力に加え、外見も求められるようになったのだろう。『有楽町で逢いましょう』(フランク永井)が爆発的な人気を得た年で、“銀座”に因む曲が多い。男女を問わず甘い歌声は苦手なクチだが、この神戸(かんべ)一郎は別格の存在だった。
☆ ダイナマイトが百五十屯(昭和33年) - 小林旭
何でこんなしょうもない曲を採り上げるかというと、当時はまだTVが無く、ラヂオに齧り付いて電リク歌謡ベストテン番組を聴き入っていた。だから、ここら辺りの流行歌には結構詳しいですよ。この曲もそれなりに人気があった。あの甲高い声が自分は好きになれなかったが、大分に於ける刎頸の友が大の“アキラ・ファン”。中学時分に映画『黒い傷痕のブルース』(昭和36年;吉永小百合も出ていた)を二人でこっそり観に行ったし、関東へ転居後も彼が上京の際には、“東京見物”と称して東京タワー、靖国神社等定番のほか、アキラ邸まで案内させられたほど。しかし家人の話として、皮肉にも大分へ撮影のための出張中とあって面会は叶わなかった。
☆ 星はなんでも知っている(昭和33年) - 平尾昌章
一聴しておわかりのとおり、他曲とは曲感がまるで異なる。すなはち、歌手も作曲者も本来ロカビリー畑の人である。【歌謡曲】を装ってはいるが、内実は米国発ロックンロール&ヒルビリーそのものと言っても差し支えなかろう。この年はロカビリーブームの絶頂期で、ニュース性を帯びた一種の社会現象でもあった。歌謡史的に観ても、旧来の日本調歌謡を次第に駆逐し、『アメリカニズム』を具現化したような楽曲(いわゆるJ-Pops)が隆盛を極める今日とズブズブの関係にある。彼らは年長者たちに“アプレ(戦後派)”と呼ばれ、単なる嫌われ者の存在に過ぎなかった。とは言え、当時の自分自身、年長者に同調しつつも、琵琶三味線尺八の音(ね)より洋楽を好んでいただけに、偉そうなことは言えません。
☆ カイマナ・ヒラ(昭和33年) - エセル中田
この年発売のレコードに相違ないが、実際にヒットしたのはハワイアンブーム(昭和36年)時である。そのせいか、コンピレーションCDアルバム『青春歌年鑑』には、'61年カテゴリーに収められている。
戦前作られたCE・キングの曲だから、曲自体知ってて不思議はないが、小学五年生時分にこの盤を耳にした記憶はない。たぶん、三年後のブームに乗って、テレビで視たのが最初だろう。いや、待てよ。ちょうど小五音楽教科書に『アロハ・オエ』が載っていたから、関連してその時に聴いたかも知れない。
いずれにしても、労組で昭和52年にハワイツアーを企画し、初めての海外旅行で現地を訪れ、ハワイアンに魅せられるようになったのは、間違いのないことであります。
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