昨年来、好奇心から観ていた韓流ドラマも、そろそろ飽きてきた。数こそ多けれど、どれもこれも似たり寄ったりで変わり映えがしない。物語や演技が画一的で様式化されており、単に“部品”を挿げ替えただけといった風情。作り方が安直すぎる。たわいない活劇や喜劇なら、痛快かつ笑えさえすればそれでよいが、内面の葛藤を描く真面目なドラマになると、もういけない。見かけ倒しの作風に辟易してしまう。早い話、ドラマ自体が虚飾で塗り固められているのだ。
これまで観た数十作中、感動したドラマなど皆無に等しい。それでもなお見続けてきたのは、自分とは全く異なる処世観(物の観方・考え方)をみる思いがして、そこに興味を覚えたからだ。
一場面だけを切り取れば、泣かせどころがないわけではない。しかし、これ見よがしの過剰演出が却って「作為」を感じさせ、本来黒子であるべき舞台裏スタッフ陣の自慢気な顔さえ見え隠れしてしまう。これでは感動どころか、逆に堪らなく嫌になる。ドラマ自体が“作り話(フィクション)”だから、そこに作為があって当然なのだが、こうもあからさまだと主体的に関わりたい当方にとって、“観た”というより“見せられた”という苦々しい印象しか残らない。
巧く表現できないけど、おのれの実生活とはあまりにもかけ離れていて、ドラマに真実味がない、とでも申しましょうか。日本の昔のドラマ(今は観てないので知らない)なら、何某か共感しうる、または感心できる人物が出て来て、ドラマの内側に我身を寄せることができたのに、韓流ドラマでは歴史上の人物を含め、そんな人は誰一人登場しない。むしろ、こんな人間にはなりたくない、と思わせる登場者ばかりでは、嫌悪感だけが増幅する。自己顕示欲をはじめ、出世欲、権力欲、金銭欲、物質欲等々。誰もが欲望を隠そうとしない。否、まるで「欲望こそが幸福の源泉」と信じて疑わない様子。必ずしも「欲望=悪」と決めつけるつもりはないが、行き過ぎ(強欲)はやはり忌むべきだろう。
有り体に言えば、みんな「楽」をしたいがために生きているかのよう。これも歴史が育んだ国民性だろうか。この「苦・楽」を例にとると、日本の場合、労働を概ね「喜び(楽)」として捉えるが、彼方では「懲役(苦)」になるらしい。韓流史劇から、そのことがよくわかる。上位者ほど徒食を貪り何もしない。労働は下々の役割と言わんばかり。それで以て下僕が牽く輿に乗り、多くの使用人を従えて威張りながら市中を移動する。
『王と妃』(1998年 KBS-TV)に面白い場面がある。韓明澮(ハン・ミョンフェ)夫人が首陽大君(後の李朝第7代国王「世祖」)宅へ招かれるが、生活に困窮して乗る輿すらなく、秘かに実家へ借りに行く。何故って、王族の屋敷に赴くのに徒歩では先方への礼を失しかねず、輿も買えない貧乏暮らしそのものが、民の上に立つ両班の家柄として堪え難い恥辱だったのですよ。十五世紀という時代ではあるが、外見を何より重んじる彼の国らしい。日本で言えば室町時代のこと。ただし、ドラマが現代的価値観に基づいて作られていることを否定しない。
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