韓流ドラマへの違和感を、“文化の違い”とひと言で結論付けてしまったが、《印度の文化、支那の文化、日本の文化はあるが、東洋文化というものはどこにもない》と説く津田左右吉の書物によって、おのれの誤謬に気がついた。
日本と支那との関係は密接であり、政治上の交渉さえも時々は生じたのである。しかし、密接であるというのは、主として日本が支那の文化を知識として取入れた点においてであって、二つの民族はやはり各別の世界をなし各別の歴史を有っていた。人種を異にし生活を異にし、社会組織政治形態を異にするものであることは、印度と支那との関係と大差がない。
ただ日本は、支那の文化を受入れることによって、はじめて自己の文化の発達が促進せられ、また後までも知識社会の知識は支那の典籍によって与えられたものに支配せられることが多かったけれども、その実生活は全く支那人のとは違っていた。文字の上で儒教の思想は講説せられたけれども、日本人の道徳生活は儒教の教えるところとも、そういう教えを生み出した支那人の道徳生活とも、まるで違っていた。
(道徳に関する文字の上の知識は、道徳生活そのものではないことを、知らねばならぬ。)
日本人の造り出した文学も芸術も、またその根柢になっている精神生活も、支那人のとはすっかり違っている。日本には、支那とは無関係に、日本だけで独自の歴史が開展せられ、それによって、平安朝の貴族文化も鎌倉以後の武家政治も徳川時代の封建制度も形成せられたが、これらは全然支那には生じなかったものであり、またその開展の径路においても支那の歴史の動きとは何らの縁のないものである。
あるいはまた支那化せられた仏教が受入れられ、その思想は、支那とは違って、一般の思想界に重要な地位を占め、その歴史的推移において幾らかの役割を演じた場合もあるが、一面においては、こういう事実そのことが支那とは違っていると共に、他面においては、それはその時々の実生活とそれから生まれた時代の空気とに接触のある点においてのみのことであり、そうしてその生活は独自なる日本の歴史の開展によっておのずから形成せられたものである。
少数の学徒の間に行われた煩瑣なる教理の講説や伝習そのことは、生きた国民の思想とは没交渉であった。仏教の弘通が日本人の生活を印度化したのでないことはいうまでもない。文字の上の知識としては、支那のはもとより、支那の文字を介して印度のが学ばれも説かれもし、相互に齟齬し矛盾した種々のものが存在したけれども、日本人の生活は一つの生活として歴史的に発展してきたのである。
要するに、日本人の生活、その文化とその精神とは、過去においても、決して支那や印度と一つになっていたのではなく、全く特異のものであった。日本固有の精神が古今を通じて巖として存在しているというようなことを、主張するのではない。日本には独自の歴史が開展せられたため、独自の文化、独自の生活が養成せられてきたというのである。そうしてそれは、日本民族が内に自ら養ってきた力にもよるのであるが、それがこういう風に発展してきたのは、地理的事情その他の環境の賜が大きい。
~津田左右吉『東洋文化、東洋思想、東洋史』(昭和六年刊)より~
《道徳に関する文字上の知識は、道徳生活そのものではない》と聴かされた以上、日・中・韓ともに儒家思想が道徳生活の根柢にある、との思い込みは、潔く訂正しよう。
韓流歴史劇に『明成皇后』(KBS-TV 2001年)がある。
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00867/v00176/v1000000000000000547/
明成皇后とはいわゆる“閔妃(みんひ)”のこと。つまり、日本の時代背景で言えば幕末から日清戦争にかけての頃であり、高宗、金玉均、大院君、伊藤博文、井上馨、三浦梧楼、李鴻章、袁世凱などの歴史上の人物が登場するし、列強に挟まれてもがき苦しむ朝鮮の立場が窺い知れて興味深い。
韓流ドラマだから、朝鮮側に立った出来栄えなのはやむを得ないが、日本人(彼らに言わせると「倭人」)はみんな野蛮人に見えるらしい。やたら日本刀を振りかざし、傍若無人の悪行を繰り返す。また、清国の袁世凱なんかも、満洲皇帝溥儀みたいに色眼鏡なんかはめちゃって、無礼かつ横暴で血も涙もない極悪人として描かれる。
対する朝鮮側となると、政治そっちのけで子作り(?)専念の高宗は情深く、毒婦の典型であるはずの主人公閔妃は、政治・外交手腕に長けた女傑になってしまう。権力欲に満ちた大院君も、民心を一手に集める偉大な愛国者として描かれる。
当時の朝鮮に関わっていた日本人を悪し様に描かれるのは気分のいいものではないが、それが誤解によるものとしても、彼らの頭の中がそうだったことは紛れもない事実だろう。つまり、華夷秩序によれば、中国が親なら朝鮮は長兄であり、日本は末弟ということになる。小中華思想の彼らにしてみれば、当然の序列ではある。そもそもの誤謬は、日本が中国文化圏の外にあることがわかってない点だろう。
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