男として情けない話だが、戦後日本は名実ともに“女の時代”と言えよう。オリムピックでもワールドカップでも、世界に君臨するのは概ね大和撫子で、日本男児たるや影が薄い。
愛好するクラシック音楽界も同じで、女流演奏家ばかりが目立つ。果ては女だらけの“レディスオーケストラ”なるものまである。彼女らを否定的に捉えているわけではない。所有するレコードを聴く限り、それはそれで好いものだ。
日本人が日本人であることを誇りとするように、女性が女性であることを誇りにできれば、それは素晴らしいことではないでしょうか。
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ふむふむ、なるほど。男どもに付け入る隙を与えない老獪な(?)言い回しですねえ。直球勝負の男勝り(?)な女権論者には反論したくもなるが、予想外の曲球(くせだま)を投げられたら二の句が継げなくなる。何処ぞの掲示板で、「女性専用車」「女性優遇策」をなくせと叫ぶ男どもは、何と反論するのだろうか。
とはいえ、自分にも妙な偏見がある。おのれが喫煙者のクセして、女性の喫煙には厳しい眼を向ける。自戒を籠めて書くが、そもそも“女流”なる語は女性側から殆ど遣われないし、対義語の“男流”となると単語自体が存在しない。世の中が「男社会」だから、差別的意図がなくとも知らず知らずのうちに遣ってはいまいか。
さて、本題へ入ろう。我が偏見によって、どうしても女性指揮者やピアニストを好きになれない。が、バイオリニストには“贔屓”がある。
☆ 諏訪根自子 Plays Dvořák ☆
諏訪根自子さんの御尊名は音楽雑誌で知っていたものの、演奏や写真に接するのは初めて。ウィキペディアによると、相当な美貌であったらしい。さらに戦時下において、クナッパーツブッシュ・ベルリンフィルと共演、ナチスドイツのゲッベルス宣伝相からストラディヴァリウスのバイオリンが贈られたとある。
映像に出てくる写真はセーラー服姿なので女学生時分か。SP盤レーベルも右から読むようになっていて、戦前乃至戦中の録音だろう。とすると、十代か二十歳代そこそこの演奏ということになる。
何たる驚き。姑娘(失礼ながら「こむすめ」と読んでください。)にして、この中庸を得た演奏。耽美的でも感傷的でもなく、決して情感に溺れていない。かといって、理知的で無機的な冷たさなど微塵も感じさせない。上手く表現できないけど“心の温もり”をもった演奏かな。
先の大戦による戦乱と演奏活動期が重なっているだけに、御写真からは美貌よりも凜として健気そうな雰囲気に目を奪われる。だから、つい先鋭的な演奏を想像してしまうが、まるで逆の泰然自若型。
女性の社会進出が未だ自他共に憚られた時代にあって、相当進歩的な人だったに違いない。現代とはわけが違う。真の“大和撫子”が、外面の見せかけによらず内面に美を秘めた日本女性を指すとすれば、諏訪さんは間違いなくそのお一人だと思う。
諏訪さんと同世代に夭折の提琴家、ジネット・ヌブーが居る。CDも所有していて“ご贔屓”の一人ではある。
☆ Ginette Neveu Plays Brahms ☆
むむっ、これは凄い。怒り狂ったブラームスで、曲も違うが諏訪さんとは正反対。“男勝り”の演奏とは、まさにこのこと。日本人、まして大和撫子が真似たら下品になりそう。ブラームスは一説によると、気弱で内向的性格だったらしい。ならば作曲者よりもよほど“男っぽい”と言わざるを得ない。そんなブラームスだから作品にも“男の哀愁”が籠もる。
母校で教育実習生だった頃、年配の先生(♂)から「ブラームスの良さ」をさんざん聞かされた。室内楽作品を指しての話だったが、何処がいいのかさっぱりわからなかった。バカである。
しかし、年齢を重ねるに連れて、クラリネット五重奏曲や弦楽六重奏曲から“男の哀愁”を感じ取れるようになった。男の本分が“信頼”にあると気づいたからだ。
頼りにされる男とは、頼まれる何事をも解決出来なければならない。そのためには「知・仁・勇」のあらゆる能力が要る。“頼られる”を裏返せば、自身は他の誰にも頼れないということ。つまり、孤高の存在でなければならない。だから愚痴もこぼせず、いつも孤独で寂しい。
余談ながら、某評論家に言わせると、《男は耳で音楽を感じとるが、女は子宮で感じる》のだそう。嘘か本当か知らないが、女流提琴家の奏でる音色が、摩訶不思議に聞こえることがある。
東京メトロン星人さん
コメントありがとうございます。
>>現代の社会では何故か女性を扱き下ろす言い方はタブー視されある種のリミッターが掛かっています。そんな社会状況で「女性の活躍は目覚ましいが、男性は影が薄い。」という見方をするのはアンフェアです。<<
記事中に書いたとおり、わたくしにも偏見がありますから、ご指摘の点は甘んじてお受けしましょう。
ただ、仮にそうした傾向があるとすれば、これまでの「男社会」に対する反動ではないでしょうか。
常に時代は右や左に揺れ動きますから、個人的には「女の時代」が来たとしても不思議ではないと思いますね。
投稿情報: クロ | 2011年11 月14日 (月曜日) 午後 07時35分
>男として情けない話だが、戦後日本は名実ともに“女の時代”と言えよう。オリムピックでもワールドカップでも、世界に君臨するのは概ね大和撫子で、日本男児たるや影が薄い。
ニュースなどでよく見るこの言い回しですが、こういった言い方には次の様な背景があります。例えば五輪で(日本の)女子選手が活躍した時には「さすが女性は凄い」という一方、男子選手が活躍した場合には「日本人は凄い」という形容で功績を讃えるのです。
そして女性を誉めるときには「それに較べて男性は…」という対比をいちいち付け加えるのに対し、男性が国際大会優勝やノーベル賞を獲得しても「それに較べて女性は…」という言い方は決して使われません。
現代の社会では何故か女性を扱き下ろす言い方はタブー視されある種のリミッターが掛かっています。そんな社会状況で「女性の活躍は目覚ましいが、男性は影が薄い。」という見方をするのはアンフェアです。
投稿情報: 東京メトロン星人 | 2011年11 月14日 (月曜日) 午後 06時52分