『薯童謡』全55話を見終わって、印象が大きく変わってしまった。それほど前半と後半ではまるで別物である。身分の低い璋(チャン)が主人公なので、民衆蜂起の革命劇かとすっかり見誤っていた。
薯童(ソドン)公ことチャンと、新羅第三王女善花(ソンファ)公主との国境を越えた苦恋物語という本筋を別にすれば、前半では国家の命運を賭けた技術開発競争が、スパイ大作戦さながらに描かれる。ところが後半は、ありきたりな血で血を洗う皇位争奪戦に早変わり。被支配層である民衆なんて、もはや“蚊帳の外”。
また、前半のチャンは平民でソンファ姫が皇族だったのに対し、彼が百済第四王子(皇族)と判明した後半では、彼女のほうが皇室を追われ(実は思惑通り)て平民(隋商人に偽装)に身をやつすという立場逆転の展開。
結局、第30代百済皇帝(武王)の座に着いたチャンは、新羅と婚姻同盟(こんな「同盟」があったとは。「政略結婚」の一種か。)を結び、ソンファを皇后に迎えるが、その後の新羅軍の侵略に怒り心頭。終いには新羅へ親征(皇帝自らの征服戦争)に乗り出すというもの。
こうしてみると、自分の知る朝鮮史とは大いに異なっている。ドラマのチャン(武王)は、あたかも“聖君”だったかのようだ。民を第一に思い、三国統一を目指した風に描かれる。しかし、新羅を盛んに攻めて新羅憎しだったのが武王の実像であり、取り立てての事績もない。そして次代義慈王の時、羅唐同盟軍(新羅と唐)によって百済は滅ぼされ、新羅によって三国統一が成されたというのが歴史であり、ドラマの拠り所となった《薯童説話》自体が史実とは言い難い。
余談ながら百済滅亡後、日本滞在中の扶余豊璋を擁立した遺臣らによって再興が計られるが、日本の援軍も空しく白村江の戦いで大敗北を喫し、失敗に終わっている。(←これ、歴史的事実)
このドラマに限ったことではないが、韓流歴史劇は“我田引水”が甚だしい。この時代の三国とも支配層に限れば、現代韓国・北朝鮮の人々とは血の繋がりがないそうだ。高句麗・百済王族が扶余系なら、新羅王族は女真系。因みに、このドラマでは悪役の百済第29代法王(=扶余宣;プヨソン)も、姓が示すとおり扶余系である。
つまり、当時の支配層はいずれも満洲一帯を地盤とした北方系民族。被支配層の土着民とは系譜を異にする。この支配層(王族・貴族)と被支配層(平民・賤民)の間には、身分の違いだけでなく民族的にも異なっていた。いわゆる異民族支配である。故に、現代韓国・北朝鮮の人々がチャンやソンファを民族的英雄視するのは、戦後日本人がマッカーサーを祭り上げるのと同じくらい可笑しなことと言わねばならない。
ところで前半に聖徳太子の依頼を受けた百済の阿佐(アジャ)太子が、木羅須(モンナス)博士らに命じて美術工芸品としての刀を実用化させる場面が出てくる。事実とすれば日本刀は百済から渡ったことになるが、極めて疑わしい。しかし、おかげで刀(かたな)と剣(つるぎ)の違いがわかった。
刀は反りがあって片刃、剣は反りのない両刃直刀。刀が概ね両手で操作するのに対し、剣は片手でしか操作できないのだそう。日本刀が発達したのは平安時代以降。それまでは日本と言えども剣を用いた。故に三種の神器《草薙の剣》も、日本刀でなく両刃の剣(直刀)。刀が剣に取って代わった日本に対し、諸外国では剣(直刀)一辺倒だが、サーベルのように刀を扱わないわけではない。
ソンファが追っ手(新羅の私兵)からチャンを百済に逃がす際、新羅兵を前に刃渡り二寸ほどの小刀を振りかざすシーンがある。あんなマイクロ刀では護身にもならない。自決専用だったのだろうか。実際、ソンファの台詞は「(チャンに)危害を及ぼせば私が死ぬ(自刃する)」。日本の時代劇でも高位の女性は懐に短刀を忍ばせているのが常だが、もっと太くて長い護身・自決兼用型。戦闘になれば薙刀を用いたらしい。
蛇足ながら、観光名所韓国慶州は新羅の首都だった場所。今なお遺跡や古墳が往時を偲ばせる。しかし、善花公主の実在を示す痕跡はなく、《薯童説話》に登場するのみである。
薯童謡OST 꽃빛(花の輝き)- 歌手;금선애(クム・ソネ)
当時(七世紀)の複雑な半島情勢を鑑みるに、悲劇的場面に用いられるこの曲が最も似つかわしい。“恨(ハン)の文化”たる所以を感じさせてくれる絶望の音楽。
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