☆ 西行、兼好は卑怯者
愚見集に書き付け候ごとく、奉公の至極は家老の座に直り、ご意見申し上ぐる事に候。この眼さへ著け候へば、餘の事捨てものなどはゆるし申し候。さてさて人はなきものに候。斯樣の事に眼の著きたる者は一人もなし。たまたま私欲の立身を好みて、追從仕廻る者はあれども、これは小欲にて終に家老には望みかけ得ず。少し魂の入りたる者は、利欲を離るると思ひて踏み込みて奉公せず、徒然草・撰集抄などを樂しみ候。兼好・西行などは、腰拔け、すくたれ者なり。
武士業がならぬ故、拔け風をこしらへたるものなり。今にも出家極老の衆は學びても然るべく候。侍たる者は名利の眞中、地獄の眞中に駈け入りても、主君の御用に立つべきことなり。
【 訳 】
『愚見集』にも認(したた)めたとおり、奉公人の終局の務めは、家老の職にあって、ご意見を申し上げることである。このことがわかれば、ほかのことはどうでもよいのだが、といって、わかる人はいないもので、まったくこの点に着目した人は皆無である。
たまたま私欲から栄達を望んで、追従するものはいるけれど、これは小さな欲望で、家老まで望むものではない。少しでももののわかった人物は、私利私欲など持たない、と称して徹底した奉公はしない。『徒然草』『撰集抄』などを愉しむばかりである。
しかし私の考えでは、兼好、西行などは腰抜けの卑怯者に過ぎない。武士の務めができないから、隠者を気取ってみただけなのだ。現在でも、例えば坊主や老人などはこうしたものを読むのもよかろうが、侍ともあろう者は、出世競争のまっただなか、利害打算の渦巻く地獄の中にさえ飛び込んで、主君の役に立つべきである。
一見しただけでは、兼好法師や西行法師の生き方を痛烈に批判しているようですが、『葉隠聞書』があくまで武士(侍)としての心得を説いた書物であることに留意すべきでしょう。
その証拠に、“出家極老の衆は學びても然るべく候。侍たる者は名利の眞中、地獄の眞中に駈け入りても、主君の御用に立つべきことなり。”と記してあります。つまり、一般庶民なら学ぶ点もあろうが、武士たる者は渦中(?)に飛び込んで奉公を尽くすべきだ、ということでしょうね。
西行の『撰集抄』はよく知りませんが、兼好の『徒然草』は教科書にもあったのでよく読みました。すると“出家極老の衆”に入るのかなあ。いずれにしても、“侍”でなくてよかったよかった。
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