☆ 忍ぶ恋
この前、寄り合ひ申す衆に咄し申し候は、戀の至極は忍戀と見立て候。逢ひてからは戀のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ戀の本質なれ。歌に
戀死なん 後の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは
これこそたけ高き戀なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。
【 訳 】
この前、集まった人たちに話したのは、恋の究極は忍恋ではないかと言うことだ。出会ってからでは、恋の内容は程度の低いものになってしまう。一生辛抱して思い死するのが恋の本質であろう。歌に
恋死なん 後の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは
というのがある。この歌の境地こそ、最も風情のある恋というものだろう、と言ったところ、感心した人が四、五人いて、「後の煙にそれと知れ」を捩って、煙仲間と言われたそうである。
【 解 説 】
恋のたけとは微妙な表現である。アメリカにおける日本文学の権威ドナルド・キーン氏が、かつて近松門左衛門の心中物を解説して、恋人同士は心中の道行に出で立つ時に、その道行の華やかな文章とともに、急に背が高くなるということを書いたことがある。それまで市井の平凡な、家族や金に絡まれた惨めな男女であった二人は、一途の恋に心中への道を辿る時に、忽ち悲劇のヒーローとヒロインとしての、巨人的な身の丈を獲得するのである。
今の恋愛はピグミーの恋になってしまった。恋は皆背が低くなり、忍ぶことが少なければ少ないほど恋愛はイメージの広がりを失い、障害を乗り越える勇気を失い、社会の道徳を変革する革命的情熱を失い。その内包する象徴的意味を失い、また同時に獲得の喜びを失い、獲得できぬことの悲しみを失い、人間の感情の広い振幅を失い、対象の美化を失い、対象をも無限に低めてしまった。恋は相対的なものであるから、相手の背丈が低まれば、こちらの背丈も低まる。かくて東京の町の隅々には、ピグミーたちの恋愛が氾濫している。
「忍恋」こそ究極の恋とする『葉隠』の恋愛観は、今風の価値観を以てしたら、さっぱり理解出来ませんね。書かれたのが江戸中期とあれば、自由恋愛真っ盛りの現代とはまるで環境が異なっていたのでしょう。
先頃、HPのほうで台湾電視劇「梅花三弄」《鬼丈夫(霊界の夫)》を採り上げました。清朝末期から民國初期の物語で、日本なら明治末期から大正初期。あくまで作り話ですが、「入家」とか「家門」「家人」など、「家」に係わる言葉が頻繁に出てきます。当人同士の意思とは無関係に、支那でも家父長らの裁量で縁組なされていたことが窺い知れます。ドラマ自体は、こうした因習(?)を否定的に捉えてありますが・・・。
劇中、柯家を亡夫の仇敵と曲解する母李映雪を、自分一人で説得してみると言う袁樂梅に対し、柯起軒が発する台詞。
爲什麼呢。這是一塲戰爭。 どうしてなの。これは一つの戦争だよ。
我不要你一個人孤軍作戰。 僕は、君が独りで臨む作戦を望まない。
我要跟你並肩作戰啊。 僕は、君と共同して当たる方法を採りたい。
恋愛を戦争に見立てるとは、いかにも大げさな大陸らしい表現ですね。でも、あながち的外れでもない気がします。「恋」と「愛」は、時として同義語にも扱われますが、実は微妙な違いがあるようです。
こ ひ 【 恋 】
特定異性に強く惹かれ、会いたい、独り占めにしたい、
一緒になりたいと思う気持。
あ い 【 愛 】
対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる
心の動き。また、その気持の表れ。
「恋」が自分本位の欲求を伴うのに対し、「愛」は見返りを求めない禁欲的な感情と言えるかもしれません。となれば三島由紀夫の解説に合点がいきます。つまり、「恋」には目的があって、その目標が「一緒(夫婦)になる」ことにあるとすれば、恋敵の出現や周囲の反対等の難題が多ければ多いほど、それを乗り越えて結ばれた時の喜びが大きい。而るに今日、恵まれた環境での「恋」は丈の低いものになった、というのが三島の観方でしょう。
自分の場合、恋愛とは縁遠い人生であり、偉そうに語る資格はないかもしれません。が、絶無だったわけではなく、無理に当て嵌めれば、今時珍しい忍恋派なのかなあ。
それは、「据え膳喰わぬは男の恥」の類だったのに、終いには自ら御膳をひっくり返してしまったのです。じゃあ望まぬ話かと言えば、とんでもない。何もかも自分には勿体ないくらい。そのうえ先様は、「(転勤先へ)一緒に連れてって」とまで仰る。周囲だってみんなが協力態勢にある中、なぜ逃げ出した(?)のか。自分でも未だにわかりません。
思い起こせば、以下のような迷いがその時あったのは事実。
① 転勤先で「"奥様"からお電話でございますわよ」など
何かにつけ"奥様""奥様"とからかわれるのが嫌だった。
② 元来、我が儘な性格で、家庭に拘束されたくなかった。
③ 理詰めの話題は百戦百敗。給料でも何でも相手のほうが
上であって、自分の出番が見出せそうになかった。
④ 将来、もっと好い人に巡り会えるかもしれない、と考えた。
⑤ 涎が出る美味い話に、裏があるのでは、と懐疑的になった。
いずれも、時が経てば状況が変わり、未知のことも明らかになるので、"その気"があるなら大した問題ではなかったはずなのに・・・。『葉隠』を読んでいてハタと気づきました。出来過ぎた相手に却って気後れして、「愛」すれど「恋」せなかったのではないか。それなりの独占欲がなければ「恋」にならないし、「恋」は相対的なものゆゑ「釣り合い」ってものがあるということ。
お終いには、双方を知る方(先様の先輩。転勤先で度々出会う奇縁の人。)から、「んもう、薄情で最低ね!泣いてたわよ!」と、(多分、彼女に代わって)悶絶するほど強烈な肘鉄を喰らわされてしまいました。何せ、すべては当方に罪あり。当然の報いなれば、咎人としては唯々甘受するしかありません。奴才該死!
しかし、こんな恥かきダメ男のどこに惹かれたのでしょう。人目を忍んで、こっそりお訊きしてみたいものです。そうそう、奇しくも本日は"奥様"の御誕生日でございます。お幾つになられるかは、知ってるけど教えてあげない。ボクちゃん、意地悪だから。
ごちそうさま。(今さら遅いか)
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