☆ 意 地
或人云ふ、「意地は内にあると、外にあるとの二つなり。外にも内にもなき者は、益に立たず。たとへば刀の身の如く、切れ物を研ぎはしらかして鞘に納めて置き、自然には抜きて眉毛にかけ、拭ひて納むるがよし。外にばかりありて、白刃を常に振廻す者には人が寄りつかず、一味の者無きものなり。内にばかり納め置き候へば、錆もつき刃も鈍り、人が思ひこなすものなり。」と。
【 訳 】
或人言うには、「意地は内にある場合と外にある場合の二種類ある。だから、外にも内にもない者は役に立たない。例えば、意地とは刀の抜き身のようなもので、よく研ぎ出して鞘に納めておき、たまに抜いて眉の高さにかざし、拭いて納めるのがよい。外にばかり出して、白刃をしょっちゅう振り廻している者には人は近寄らず、仲間がいない。また、内にばかり納めておくと錆がつき、刃も鈍って人が馬鹿にするものである。」と。
【 解 説 】
これは、そのまま読んでおもしろいものだ。
三島由紀夫の解説が凄い。一行、十八文字。さすがは文士ですね。この教訓には、むしろ解説などないほうがよい。「意地」を「刀」に喩えた表現は、日本人ならピンと来なくちゃ。でなければ、本当に日本人か、と逆に問い返されそう。
戦国時代なら日常茶飯事の刃傷沙汰も、常朝師が生きた太平の時代なればこそ、「斬った貼った」はほとんどなかったであったろうことは、想像に難くありません。さすれば、“伝家の宝刀”(?)も鞘に納めたままだと錆び付くし、年中ひけらかしても有難味が薄れて、人に舐められる。そういうことでしょう? 万事の行動に応用できそうですね。
「意地(いぢ)」とは、自分の思うことを無理に押し通そうとする心だそうですから、ここぞの時こそ(「意地」という宝刀を)抜くべきであって、のべつ意地を張ってみたところで効果がない、との誡めでしょう。かといって、内に秘めたままだと「意気地なし」に見られてしまうから、たまにはチラつかせて見せろ、ということかもしれませんね。どうも匙加減が難しいようです。
関係ないですが、「女の意地」(昭和四十年)という流行歌がありました。別れた人には逢いたし懐かし。でも、それを忘れるのが女の意地。大意、そんな歌で、わりかし好きな曲でしたが、今聴くと西田佐知子が何ともかったるく、辛気臭いですね。『葉隠』にも恋愛観が出てきますが、もっと明るくおおらかであります。
ありがとうございました。
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