☆ 女 風
権之丞殿へ話に、今時の若き者、女風になりたがるなり。結構者、人愛の有る者、物を破らぬ人、柔なる人と云ふ様なるを、よき人と取りはやす時代になりたる故、矛手延びず、突つ切れたる事をならぬなり。
第一は身上を抱き留むる合点が強き故、大事とばかり思ひ、心縮まると見えたり。その方も我が知行にてなく、親の苦労して取り立てられたる物を、養子に来て崩し候てはならぬことと大事に思はるべきが、それは世情の風なり。
我等が所存は格別なり。奉公する時分、身上の事などは何とも思はざりしなり。素より主人のものなれば、大事がり惜しむべき様無き事なり。我等生世の中に、奉公方にて浪人切腹して見すれば本望至極なり。奉公人の打留めはこの二箇状に極りたるものなり。
その中きたな崩れは無念なり。おくれ、不当介(ふあてがひ)、私欲、人の害になる事などはあるまじき事なり。その外にては崩すを本望と思ふべし。かくの如く落ち着くと、その儘矛手延びてはたらかれ、勢ひ格別なり。
【 訳 】
権之丞殿に話されたことである。昨今の若者は、女性的になってしまった。性格がよく、愛想いい、角の立たない、もの柔らかな人などを、よい人と噂し合う時代になってしまったから、消極的で、思い切ったことが出来ない。
第一は、保身ばかり考えるから、精神が萎縮してしまう。お前も、自分で得た俸禄ではなく、親の苦労で得たものを、養子に来て駄目にしては申し訳ないと思うだろうが、それは世上通り一遍の考えである。
私の考えはまた別である。奉公の間は、己の身上など考えもしなかった。もともと俸禄は主人のものなれば、大事がり惜しむべきものではない。むしろ生きて浪人し切腹させられるようならば、却って望むところである。奉公人の終着点は、この二つに決まっている。
但し、つまらないことで家を崩すのは残念である。後れをとったり、行き届かなかったり、私欲で失敗したり、人に迷惑をかけたりすることがあってはならぬ。その外のことで崩れ去るのは本望と思え。こう決心すると気力充実し、溌剌として働けるものである。
【 解 説 】
今の時代は、“男は愛嬌、女は度胸”という時代である。我々の周辺には愛嬌のいい男に事欠かない。そして時代は、もの柔らかな、誰にでも愛される、決して角立たない、協調精神の旺盛な、そして心の底は冷たい利己主義に満たされた、そういう人間のステレオタイプを輩出している。
『葉隠』はこれを女風というのである。『葉隠』のいう美は愛されるための美ではない。体面のための、恥ずかしめられぬための強い美である。愛される美を求める時に、そこに女風が始まる。それは精神の化粧である。『葉隠』は、このような精神の化粧を甚だ憎んだ。
現代は苦い薬も甘い糖衣に包み、すべてのものが口当たりよく、歯応えのないものが最も人に受け容れられるものになっている。『葉隠』の反時代的な精神は、この点で現代にもそのまま通用する。
さすがは文士の三島由紀夫、【解説】には唸るばかりです。“男は愛嬌、女は度胸”とは、当世風への痛烈な皮肉でありましょう。三島の言う「現代」とは凡そ半世紀前のことですが、今やその傾向が益々顕著になってはいますまいか。
「精神の化粧」とはよく言ったものです。結局、言わんとするところは、「エゴイズム」によるものか「エゴティズム」が根柢にあるのか、という行動のあり方を掘り下げているのでしょう。
一見、解説文は「協調精神」を否定するかのようですが、内心がエゴイズム、つまり利己主義に凝り固まっていることのほうを問題にしているのであって、そんなものは協調ではなく、単なる「馴れ合い」に過ぎない、との強い意思を感じます。
『葉隠』にしても、私利私欲といったものを乗り越え、ただひたすら奉公人としての務めを果たせ、という説諭なのでありましょう。「滅私奉公」。今や死語同然ですが、辞典には「私心を捨てて公のために尽くすこと。」とあります。
現代日本社会が変質してしまった原因を精神面で捉えれば、旧来の滅私奉公という、かつて主流であったろうエゴティズム(主我主義)を胸に秘めた日本人は極少数派に没落し、自覚の有無を問わず、エゴイズム(利己主義)に走る人々が主流を占める世の中に変わり果ててしまったということか。御先祖様に申しわけがたちません。
コメント