☆ 和と謙譲
諸人一和して、天道に任せて居れば心安きなり。一和せぬは、大義を調へても忠義にあらず。朋輩と仲惡しく、かりそめの出會ひにも顏出し惡しく、すね言のみ云ふは、胸量狹き愚癡より出づるなり。自然の時の事を思ふて、心に叶はぬ事ありとも、出會ふ度毎に會釋よく、他事なく、幾度にても飽かぬ樣に、心を付けて取り合ふべし。
また無常の世の中、今の事も知れず、人に惡しく思はれて果すは、詮なき事なり。但し、賣僧、輕薄は、見苦しきなり。これは我が爲にする故なり。また人を先に立て、爭ふ心なく、禮儀を亂さず、へり下りて、我が爲には惡しくとも、人の爲によき樣にすれば、いつも初會の樣にて、仲惡しくなることなし。婚禮の作法も、別の道なり。終を愼む事始の如くならば、不和の儀あるべからざるなり。
【 訳 】
諸人が一致して、天地自然の道理に従った生活をしていれば安心である。親しみ和む心のない者は、どんな立派なことを言ったとしても忠義ではない。仲間たちと仲悪く、ふとした出会いにも嫌な顔をしたり、ひがみっぽい事だけを言ったりするのは、狭い考えの愚かさから始まるものである。
いざという時の事を考えて、得心できず、嫌な感じを持っていても、その人と出会う度に愛想よく挨拶し、何度あっても飽きないように努力し、心して付き合うべきである。
だが、そのように努力しても、無常な世であれば、現在のことすらどうなるかわからず、人に悪く思われて終わるのは仕方のないことだ。ただ、悪僧や軽薄な人のように振る舞わないことだ。彼等は見苦しい限りである。
また人を先に立て、相争う気持ちもなく、礼儀正しくし、謙遜して、自分の為には悪い事でも、人の為を思って配慮すれば、何時も初めて会った時のようで、仲が悪くなる事もない。婚礼の作法も同様で、座に馴れるにつれて気が緩み、終わり頃つい失敗するものだ。
馴れ親しむようになっても、初めて会った頃のように、慎みの心を以て接すれば、仲違いなど起こりはしないものである。
【 解 説 】
ここにも『葉隠』の一つの矛盾の例がある。あれほどエネルギーを賛美し、あれほど行動の行き過ぎを認めた『葉隠』が、ここでは社会の秩序、その和の精神と謙譲の美徳を褒め称えている。常朝は、たまたまこのようなプラクティカルな教訓を与える時には、実に平然と矛盾を犯すのである.。そこにまた『葉隠』の不思議な魅力がある。
「初心忘るべからず」(世阿弥『花鏡』)の葉隠版でしょうか。こうして御高説を聞くだけなら、なるほどと頷けるのですが、いざ自分が実行するとなると、簡単なようでなかなか難しそうですね。
「和と謙譲」といえば、人間関係における日本文化の核心部分でしょう。これは、争い事を好まない伝統的精神を持ち合わせているか否かを量る尺度にもなりそうな気がします。
ところで、「賣僧(まいす)」という言葉を初めて知りました。
まいす 【 売 僧 】
1.僧でありながら物品の販売などをする堕落僧。
また、僧をののしっていう語。えせぼうず。まいすぼうず。
2.人をだます者。うそつき。また、うそ。
ありがとうございました。
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