☆ 着想と判断力を生み出す法
生れつきによりて、即座に知惠の出る人もあり、退いて枕をわりて案じ出す人もあり。この本(もと)を極めて見るに、生れつきの高下はあれども、四誓願に押し當て、私なく案ずる時、不思議の知惠も出づるなり。
皆人、物を深く案ずれば、遠き事も案じ出すやうに思へども、私を根にして案じ廻らし、皆邪智の働きにて、惡事となる事のみなり。愚人の習ひ、私なくなること成り難し。
さりながら、事に臨んで先づその事を差し置き、胸に四誓願を押し立て、私を除きて工夫ゐたさば、大はづれあるべからず。
【 四 誓 願 】
一、武士道に於ておくれ取り申すまじき事。
一、主君の御用に立つべき事。
一、親に孝行仕るべき事。
一、大慈悲を起し人の爲になるべき事。
【 現代語訳 】
生まれつきのせいで、即座に知恵の出せる人もあれば、あとで枕を叩き割るほどに考えあぐねた末、思案を示す人もいる。とにかく、人それぞれ生まれつきの差違はあるものの、四つの誓願に基づき、“私”(私心)を捨てて考える時、思いもよらない知恵すら出てくるものである。
誰でも物事をじっくりとよく考えさえすれば、どんな難解なことでも考え出せるように思うかもしれないが、“私”を基本にして判断したのでは、いくら考えても邪智の働きとなってしまい、役立たずになるばかりである。とは言え、愚かな人間どもには、“私”をなくすことは難しい。
だから事に臨んだらそのことを別にして、まず原則に従い、“私”を除いて、いろいろ考えれば大きく外れることはなくなるだろう。
ここのキモは、私利私欲を捨てて思い致さば大きな間違いはない、ということでしょう。裏を返せば、いつの世にも、私利私欲に凝り固まった人々が如何に多いか、を示しているのかもしれませんね。
「四誓願」にしても、当たり前といったものでさほど難しい掟(おきて)とは思えません。人間は易きに流されやすいものとすれば、トコトン自由気ままな環境に身を置くほどに、堕ちるところまで堕ちてしまいがちです。それに歯止めをかけていたのがほかでもない「自律心」であったのではなかろうか、というのがわたくしめの推論であります。倫理・道徳無きままに自由を手にするのは害毒以外の何物でもないと思います。
手許の書物は抜粋なので載っていませんが、
「知」とは、人の話をよく聞くことである。
「仁」とは、人が望む事をしてやるまでだ。
「勇」とは、歯をくいしばって我慢することである。
という趣旨の教えも出てきます。
「三人寄らば文殊の知恵」とも言いますし、「知」は“知恵”、「仁」は“思いやり”、「勇」は“困難を懼れず、正対すること”でしたから、より具体的で分かり易い説明ですね。
何度も持ち出して恐縮です。今でも深く心に刻まれている「小学校卒業文集」(昭和34年度)中、恩師の言葉を貼っておきます。
僕のように気むつかしやの人間を今日まで先生、先生といって、共に勉強してくれたことを大変うれしく思う。
自分のことは自分でやることだ。親にも、先生にも賴ってはならぬ。最後まで自分ただ一人と思って頑張るのだ。
苦しみや、悲しみに負ける人間は何事もなしとげることが出来ない。歯をくいしばって頑張ろう。
ありがとうございました。
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